常設展示1995年度【第2期展示】 1995年6月27日(火)~9月24日(日)
第1室:大正・昭和初期の洋画
大正期の人々は、国が日露戦争で対外的にも安定したこともあり、その関心が国家間の問題から社会や自我の問題へと移ってきた。一方、経済は、第一次大戦後の好景気と膨脹した経済が当然のようにたどる不景気、それに追い討ちをかけた関東大震災など、激しい浮き沈みのなかで、新しい産業の発生、都市の拡大、労働争議の活発化を生み、さまざまな局面を迎えていた。
日本の青春時代といわれる大正期の多様な局面は洋画の分野でも同じく、ヨーロッパで展開している新しい美術の動きが一気に流れこみ、美術のマスメディア的地位を獲得していた雑誌『白樺』などを介して地方にまで情報が届き、画家をこころざす若者を刺激した。表現の多様化は文部省美術展覧会(文展)や光風会といった既成の団体だけでは収まりきれず、フュウザン会、二科会、日本美術院、草土社、春陽会などがつぎつぎと産声をあげた。こうした団体は、新進画家の多様な表現を積極的に受け入れる役割をはたしていた。村山槐多や関根正二のような20歳代の前半で夭折してしまった画家がわずか10代で美術界で認められたのも諸団体の受け皿があったからである。
村山槐多は父親の勤務地横浜に生まれ、小学校3年の頃より積極的に絵を描くようになり、やがて画家になることを志すが父親に反対された。従兄で槐多よりも14歳年上の山本鼎は槐多の才能を認め、画家になるよう両親を説得、槐多の上京の際には小杉未醒に託すなど、精神的な支えとなった。そしてなによりも、山本鼎はパリ留学中に最新の美術運動を槐多に紹介し、中学時代の槐多に多大な影響を及ぼしている。槐多は美術だけではなく、中学2年の頃より文藝にしたしみ、森鴎外やボードレール・ランボーなどを片っ端から読破する一方で、中学3年のときには『強盗』『銅貨』『孔雀石』『アルカロイド』といった回覧雑誌を自主制作している。上京し、小杉未醒宅に寄寓した槐多は再興日本美術院の研究生となり、大正4年第2回の日本美術院展に「カンナと少女」を出品、院賞を受賞。大正6年第4回展では「乞食と女」を出品し、院友に推されている。
死後、槐多の日記、詩、書簡を集めた『槐多の歌へる』が親友山崎省三により編まれた。自分のアトリエを宮殿に見立てた「宮殿指示」などもこの本に収録されているが、出版するにあたって風俗壊乱的な内容は発売禁止をおそれて一部省略されているものもある。デカダンス(退廃的)でありながら誰よりもつよい情熱をもって取り組む槐多の芸術は、これらの文章にあらわれており、絵画も文章も同一線上に位置する、切りはなせない存在となっていることがわかる。この本は芥川龍之介、高村光太郎、与謝野晶子らによって、高い評価を得た。
関根正二は福島県白河郡に生まれ、9歳のとき東京深川に移った。近所にはひとつ年上の日本画家伊東深水が住んでおり、深水の紹介で印刷会社の職を得、そこで知り合った小林専という人物に影響されて洋画の道を進むことになった。14歳のとき職場を辞して無銭旅行に出かけ、長野県で河野通勢と知り合う。河野自身のペン画や、彼に見せてもらったデューラーやレオナルド・ダ・ヴィンチの画集が関根の素描を決定的に方向付けたようだが、それ以上に関根の宗教的画題は河野の信仰していたキリスト教に負うところが大きい。第2回二科展で、16歳の関根は「死を思う日」を出品し、みごと入選をはたした。そのとき、安井曽太郎は滞欧作44点を特別陳列し、関根はその色彩の美しさにかなり刺激を受けたといわれる。大正7年第5回二科展で「信仰の悲しみ」「姉弟」などを出品し、新人賞ともいえる樗牛賞を受賞したが、年末スペイン風邪にかかり翌年6月、わずか20歳で亡くなっている。
(田中善明)
作家名 | 生没年 | 作品名 | 制作年 | 材質 | 備考 |
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村山 槐多 | (1896-1919) | 自画像 | 1914-15 | 油彩・キャンバス | |
村山 槐多 | (1896-1919) | 信州風景 | 1917-18 | 木炭・紙 | |
村山 槐多 | (1896-1919) | しゃがんだ男 | 1915 | 水彩、インク・紙 | (財)岡田文化財団寄贈 |
村山 槐多 | (1896-1919) | 両手を開いた裸婦立像 | 1915頃 | 鉛筆・紙 | (財)岡田文化財団寄贈 |
村山 槐多 | (1896-1919) | 顔と風景 | 1915頃 | 墨・紙 | (財)岡田文化財団寄贈 |
村山 槐多 | (1896-1919) | 人物 | 1917頃 | 水彩・紙 | (財)岡田文化財団寄贈 |
村山 槐多 | (1896-1919) | 女の顔 | 1918 | 水彩・紙 | (財)岡田文化財団寄贈 |
村山 槐多 | (1896-1919) | 踊るピエロ | 1918 | 鉛筆・紙 | (財)岡田文化財団寄贈 |
村山 槐多 | (1896-1919) | 癩者と娘等 | 1915頃 | インク・紙 | (財)岡田文化財団寄贈 |
村山 槐多 | (1896-1919) | 人物のいる農村風景 | 不詳 | 鉛筆・紙 | |
村山 槐多 | (1896-1919) | 詩・紫の天の戦慄 | 1914 | (財)岡田文化財団寄贈 | |
村山 槐多 | (1896-1919) | 詩・雨降り | 1918 | 鉛筆・紙 | (財)岡田文化財団寄贈 |
村山 槐多 | (1896-1919) | ピンクのレブレター | 水彩、インク・紙 | (財)岡田文化財団寄贈 | |
関根 正二 | (1899-1919) | 群像 | 1916 | 木炭・紙 | (財)岡田文化財団寄贈 |
関根 正二 | (1899-1919) | 『文章世界』表紙下絵 | 1918 | 墨、鉛筆・紙 | (財)岡田文化財団寄贈 |
関根 正二 | (1899-1919) | 「信仰の悲しみ」遺作展覧会目録 | 1919 | (財)岡田文化財団寄贈 | |
関根 正二 | (1899-1919) | 顔と立てる人 | インク・紙 | (財)岡田文化財団寄贈 | |
関根 正二 | (1899-1919) | 雑誌表紙習作 | インク・紙 | (財)岡田文化財団寄贈 | |
関根 正二 | (1899-1919) | 風景断片 | インク・紙 | (財)岡田文化財団寄贈 | |
関根 正二 | (1899-1919) | 関根正二小品画会案内草稿 | (財)岡田文化財団寄贈 | ||
関根 正二 | (1899-1919) | クレヨン画断片 | クレヨン・紙 | (財)岡田文化財団寄贈 | |
関根 正二 | (1899-1919) | スケッチ帳(包帯の男) | 1919頃 | インク・紙 | (財)岡田文化財団寄贈 |
関根 正二 | (1899-1919) | スケッチ帳(絵の具) | 1919頃 | インク・紙 | (財)岡田文化財団寄贈 |
長谷川利行 | (1891-1940) | 裸婦 | 水彩・紙 | (財)岡田文化財団寄贈 | |
萬 鐵五郎 | (1885-1927) | 建物のある風景 | 1910頃 | 油彩・キャンバス | |
萬 鐵五郎 | (1885-1927) | 山 | 1915 | 油彩・キャンバス | |
萬 鐵五郎 | (1885-1927) | 木の間よりの風景 | 1918 | 油彩・キャンバス | |
萬 鐵五郎 | (1885-1927) | 枯木の風景 | 1924 | 油彩・キャンバス | |
萬 鐵五郎 | (1885-1927) | 茅ケ崎風景 | 1924頃 | コンテ・紙 | |
萬 鐵五郎 | (1885-1927) | 風景 | 1924頃 | 鉛筆・紙 | |
萬 鐵五郎 | (1885-1927) | ほほづゑの人 | 1926頃 | コンテ・紙 | |
中村 彝 | (1887-1924) | 婦人像 | 1922 | 油彩・キャンバス | |
中村 彝 | (1887-1924) | 髑髏のある静物 | 1923 | 油彩・板 | |
中村 彝 | (1887-1924) | 自画像 | 1922頃 | 木炭・紙 | |
岸田 劉生 | (1891-1926) | 照子素描 | 1919 | 水彩、木炭・紙 | |
岸田 劉生 | (1891-1926) | 自画像 | 1917 | クレヨン、コンテ・紙 | |
前田 寛治 | (1896-1930) | 風景 | 1924頃 | 油彩・キャンバス | |
前田 寛治 | (1896-1930) | 赤い帽子の少女 | 1928 | 油彩・キャンバス | |
前田 寛治 | (1896-1930) | 裸婦 | 1928 | 油彩・キャンバス | |
戸張 孤雁 | (1882-1927) | トルソ | 1914 | ブロンズ | |
戸張 孤雁 | (1882-1927) | 虚無 | 1920 | ブロンズ | |
中原悌二郎 | (1888-1921) | 石井鶴三氏像 | 1916 | ブロンズ | |
中原悌二郎 | (1888-1921) | 若きカフカス人 | 1919 | ブロンズ | |
石井 鶴三 | (1887-1973) | 中原氏像 | 1916 | ブロンズ | |
石井 鶴三 | (1887-1973) | 猫 | 1938 | ブロンズ |
第2室:曾我蕭白と三重の近世画人たち
数多くの優れた作品の発掘によって、曾我蕭白(1730~81)が、池大雅や円山応挙などと並ぶ江戸中期の代表的画家として認められるようになって久しい。蕭白の作風は奇想にあふれ、奇行を伝える逸話にも事欠かない。それが近代の個人主義的芸術家観と重ね合わされたため、世間からは疎外され画壇からも異端視される孤高の画家、というイメージがかたちづくられ近年に至っている。しかしそうした先入観を棄て、作品をつぶさに検討していくと、個性的で一見独創的にみえる表現内容も、実は、俳諧や謡曲など、当時のさまざまな文芸と通底する同時代思考に裏付けられていることがわかってくる。
蕭白は、大雅や応挙と同じように京都の画家であるが、しばしば地方を遊歴し、播磨・出雲などに足跡を残している。なかでも伊勢地方には何度か来遊しており、30歳代の画家としてもっとも充実した時期の優れた作品を多く残している。
31歳の年紀のある「林和靖図屏風」は、蕭白の伊勢遊歴の初期に描かれたと考えられる作品である。
眉月がかかり、黄昏の残光に梅花の映える汀の光景は、この屏風の主役である中国北宋時代の文人林和靖が詠んだ梅の詩の一節、「疎影横斜水清淺、暗香浮動月黄昏」の辞意に沿っている。
しかし、辞意をなぞっただけの通り一遍の描写に終わらないのが蕭白らしい。のたうちよじれて巨大なムーブメントを発する梅の樹幹はひと続きになった六曲一双の広々とした空間を圧しており、本来の主役である林和靖とのあいだで主客が転倒する。
樹幹には墨の濃淡のほか金泥が使われるが、金泥は蕭白の技法では、単に装飾を加える用法ではなく、月や日に映じる光を表すために使われる。「月夜山水図屏風」(滋賀県・近江神宮蔵)の例とともに、月夜の幻想性を見事に引き出した好例といえよう。
梅を愛でるでもなく、あるいは愛でるのにさえ辟易したのか、退屈しきっている様子の林和靖が、梅を愛でるべき決まり切った図像にさえ辟易しているようでおもしろい。古典的正統を揶揄し、逆転された価値から生じる滑稽を楽しもうとする俳諧で鍛えた蕭白の、江戸人らしい知的な遊戯心がうかがわれる。
このような遊戯は、この画を見る人と作る人とのあいだの感覚と知識のせめぎ合いがあってはじめて可能になる性質のものである。こうした作品が伊勢という地方で描かれたことは、とりもなおさず、蕭白を受け入れる素地が育っていたことを示している。このことは、奇矯な人柄と特異な作風のために時代から孤立していたという従来の蕭白観とは相反する。
蕭白と交遊をもち、揮毫を求めるなどしたのは、僧侶や藩儒など従来からの知識層のほか、豪商や豪農たちであった。彼らは、経済的繁栄を背景に、18世紀に新しく教養層に成長してきた人々であった。京都の画家や文人と彼らとの交遊はこの時代の重要な文化現象のひとつであるが、蕭白の交遊に関しては、その孤高のイメージに歪められたためか、これまで看過されがちであった。
蕭白は、江戸中後期を際だたせる文化現象、すなわち、京都をはじめとする都市文芸の地方拡散を身を持って例証する存在である。
(山口泰弘)
作家名 | 生没年 | 作品名 | 制作年 | 材質 | 備考 |
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曾我 蕭白 | (1730-1781) | 林和靖図屏風 | 1760 | 紙本墨画 | |
曾我 蕭白 | (1730-1781) | 旧永島家襖絵・松鷹図 | 1764頃 | 紙本墨画淡彩 | |
曾我 蕭白 | (1730-1781) | 李白観瀑図 | 18世紀中期 | 紙本墨画 | 寄託品 |
池 大雅 | (1723-1776) | 山水図 | 18世紀中期 | 紙本淡彩 | |
月僊 | (1721-1809) | 王義之蘭亭之図 | 18世紀後半 | 紙本著色 | |
月僊 | (1721-1809) | 赤壁図(双幅) | 18世紀後半 | 紙本淡彩 | |
月僊 | (1721-1809) | 東方朔図 | 18世紀後半 | 絹本墨画淡彩 | 小津茂右衛門コレクション |
青木 夙夜 | ( ?-1802) | 冨嶽図 | 18世紀後半 | 絹本著色 | |
青木 夙夜 | ( ?-1802) | 琴棋書画図 | 1795 | 絹本著色 | |
増山 雪斎 | (1754-1819) | 花鳥図 | 1794 | 絹本淡彩 | |
増山 雪斎 | (1754-1819) | 花鳥図 | 1814 | 絹本著色 | |
岩佐又兵衛 | (1578-1650) | 堀江物語絵巻 | 17世紀前半 | 紙本著色 | 寄託品 |
第3室:カンディンスキーと二十世紀の美術
1930年の7月下旬、ひとくみの日本人夫妻がドイツのベルリンに到着した。のちに画家三岸好太郎のアトリエを設計した山脇巌と道子である。かれらはそれから、古いドイツの街並みときわだった対照をみせている白い壁と大きなガラス張りの四角い建物が人目をひく「バウハウス」へ入学するために、デッサウへむかうことになる。こうして日本人女性としてはじめてバウハウスで学ぶ生徒となった山脇道子が当時をふりかえった『バウハウスと茶の湯』(新潮社、1995年)には、そこでの生活がスリリングに描かれているが、とりわけ記憶にのこったのがカンディンスキーの授業だったらしい。
あらゆる藝術の総合という大なる理想をかかげ、時代に先駆けてそれを試み、現代の環境藝術やインター・メディアのかんがえの源のひとつとなったバウハウス。1919年ワイマールで誕生したあとデッサウにうつり、1933年のベルリンでその歴史をとじたバウハウスに終始関与しつづけた数少ないひとがカンディンスキーだったのだが、それはともかく、デッサウでMityiko Yamawakiがうけたのが「抽象的形態要素」「分析的デッサン」で、これは第一学期生の必修科目である。
カンディンスキーのおしえかたは、それまでのどんなのともちがっていた。たとえば、「研究室の黒板の横に数個の机や椅子やカーテン、時には学生の泥だらけの自転車まで無造作に天井まで盛り上げ、一応物理的に固定すると、学生にしばらくそれを凝視させ、思索させます。学生は、この空間の大きなかたまりの中からいくつかの単純な基本形態と彼の主張する〈形態のスパヌンク〉を発見し、表現の単純化を追求するのです」といったぐあいだ。いっぽうカンディンスキーの妻だったニーナもまた生徒へのユニークな「宿題」のことをかたっているが、それはこうだ。「黒い紙を用意し、その上にいろいろな色の四角形を置いて下さい。その次、同じ色のそれらの四角形を白い紙の上に置いて下さい。またその次には、色のついた四角形を用意し、その上に順次白の四角形を置き、そのあとで今度は黒の四角形を置いて下さい。以上が次の時間のための課題です。ではさようなら。」
こういう生徒への質問をみずからに向けて、みることの秘密をまなびながら造型のせかいの消息をさぐったとき、自ずから生まれてきた作品のひとつが『小さな世界』だった。バウハウスがまだワイマールにあった1922年、そこのアトリエで短時間のうちに制作し、ベルリンの出版社プロピュレーエンから限定出版(230部。そのうち30部は特別に和紙刷)された。ぜんぶで12枚あり、それぞれが他とつながりあって、カンディンスキーが好きだったことばをつかえば互いに響きあって、どこからはじめてどこで終ってもいい円環をつくりあげている。
自然の事物の姿がすっかりきえてしまっているこの線と色彩の乱舞は、輿のおもむくままに描いただけで、そこには感覚だけしかないじゃないかと感じるのはこれは自然のなりゆきだけれど、ほんとうはちがう。カンディンスキーはむしろ藝術家にはまれな理性のひとつであって、知性の大地がたしかにあったから、そのうえでかえって自由な夢をみることができた。トルコ青玉をおもわせるあのカンディンスキー独特の青への好みも、こんな知性のみようとした夢がロシアの空の色にまざりあってうまれてきたのである。カンディンスキーの作品、「それは数学を基礎にした音楽である。」(サン・ラザロ)
(東俊郎)
作家名 | 生没年 | 作品名 | 制作年 | 材質 | 備考 |
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ワシリー・カンディンスキー | (1866-1944) | 小さな世界 | 1922 | リトグラフ・木版・ドライポイント・紙 | |
マルク・シャガール | (1889-1985) | 枝 | 1956-62 | 油彩・キャンバス | (財)岡田文化財団寄贈 |
マルク・シャガール | (1889-1985) | 版画集 サーカス | 1967 | リトグラフ・紙 | (財)岡田文化財団寄贈 |
エドヴァルト・ムンク | (1863-1944) | マイアー・グレーフェ・ポートフェリオ | 1895 | エッチング・ドライポイント・紙 | |
パブロ・ピカソ | (1881-1973) | ロマの女 | 1900 | パステル、油彩・紙 | 三重県企業庁寄託 |
オディロン・ルドン | (1881-1916) | ヨハネ黙示録 | 1899 | リトグラフ・紙 | |
オディロン・ルドン | (1881-1916) | アレゴリー | 1905 | 油彩・キャンバス | |
エミール・ノルデ | (1867-1956) | 肖像(アダ・ノルデ) | 1906 | エッチング・紙 | |
エミール・ノルデ | (1867-1956) | 自画像 | 1907 | リトグラフ・紙 | |
エミール・ノルデ | (1867-1956) | ハンブルク港 | 1910 | エッチング、アクアチント・紙 | |
エミール・ノルデ | (1867-1956) | 引き舟 | 1910 | エッチング・紙 | |
E.Lキルヒナー | (1880-1938) | 三婦人 | 1907 | 木版・紙 | |
E.Lキルヒナー | (1880-1938) | フェルトマインの燈台 | 1912頃 | 鉛筆・紙 | |
E.Lキルヒナー | (1880-1938) | ダヴォス近郊の小屋 | クレヨン・紙 | ||
クロード・モネ | (1840-1926) | ラ・ロシュブロンドの村 | 1899頃 | 油彩・キャンバス | (財)岡田文化財団寄贈 |
ジョルジュ・ルオー | (1871-1958) | キリスト磔刑 | 1939頃 | 油彩・キャンバス | (財)岡田文化財団寄贈 |
ジョルジュ・ルオー | (1871-1958) | 受難(パッション) | 1939 | カラーオーフェルト・紙 | |
ジョアン・ミロ | (1893-1985) | アルバム | 1948 | リトグラフ・紙 |
ギャラリー、ロビー
作家名 | 生没年 | 作品名 | 制作年 | 材質 | 備考 |
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小清水 漸 | (1944- ) | 作業台水鏡 | 1981 | 合板・ウレタン塗装 | (財)岡田文化財団寄贈 |
向井 良吉 | (1918- ) | 発掘した言葉 | 1958 | ブロンズ | 作者寄贈 |
湯原 和夫 | (1930- ) | 無題 | 1971 | 鉄、ステンレス | |
湯原 和夫 | (1930- ) | 無題 | 1983 | 鉛筆、樹脂絵具・紙 | |
湯原 和夫 | (1930- ) | 無題 | 1983 | 鉛筆、樹脂絵具・紙 | |
湯原 和夫 | (1930- ) | 無題 | 1983 | 鉛筆、樹脂絵具・紙 | |
湯原 和夫 | (1930- ) | 無題 | 1984 | 樹脂絵具、和紙・紙 | |
湯原 和夫 | (1930- ) | 無題84-7 | 1984 | 鉛筆、アクリル、経木、セロテープ・紙 | 作者寄贈 |
湯原 和夫 | (1930- ) | 無題85-1 | 1985 | 鉛筆、朱墨、アクリル・紙 | |
湯原 和夫 | (1930- ) | 無題85-7 | 1985 | アクリル、和紙・紙 | |
湯原 和夫 | (1930- ) | 無題86-19 | 1986 | 鉛筆、アクリル、墨、和紙・紙 | |
湯原 和夫 | (1930- ) | 無題88-10 | 1988 | 鉛筆、アクリル・紙 | |
江口 週 | (1932- ) | 漂流と原形 | 1988 | 木 | |
江口 週 | (1932- ) | ふたたび翔べるか-柱上の鳥 | 1988 | 木 | |
甲谷 武 | (1945- ) | 円の構造 | 1985 | ラッカー・ブラスチック | 作者寄贈 |
佐藤 忠良 | (1912- ) | 賢島の娘 | 1973 | ブロンズ | |
柳原 義達 | (1910- ) | バルザックのモデルたりし男 | 1957 | ブロンズ | |
多田 美波 | (1924- ) | 曙 | 1982 | テラコッタ・ステンレススティール |
屋外彫刻
作家名 | 生没年 | 作品名 | 制作年 | 材質 | 備考 |
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ジャコモ・マンズー | (1908-1991) | ジュリアとミレトの乗った大きな一輪車 | 1973 | ブロンズ | 百五銀行寄贈 |
多田 美波 | (1924- ) | 作品91 | 1991 | ステンレススティール | |
湯原 和夫 | (1930- ) | 無題 | 1982 | 鉄・ステンレススティール | 井村屋製菓寄贈 |
井上 武吉 | (1930-1997) | my sky hole 82 | 1982 | 鉄・ステンレススティール | |
井上 武吉 | (1930-1997) | my sky hole 85-6 | 1985 | 鉄 | |
番浦 有爾 | (1935- ) | 風 | 1990 | ブロンズ | |
田畑 進 | (1944- ) | NOKOSARETA-KATACHI | 1982 | ステンレススティール・黒御影石 | |
八ツ木 のぶ | (1946- ) | 象と人(異邦の夢) | 1988 | ステンレススティール・ウレタン塗装 | |
梶 滋 | (1951- ) | 円柱とその周辺 | 1986 | アルミニウム | |
石原 秀雄 | (1951- ) | 暗室の王 | 1994 | 白御影石 | |
松本 薫 | (1952- ) | Cycle-90° | 1992 | ステンレススティール |