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美術館 > 展覧会のご案内 > 常設展(美術館のコレクション) > 1994 > 常設展示1994年度第4期(1995.1-3)

常設展示1994年度【第4期展示】 1995年1月4日(水)~3月26日(日)

第1室:昭和期の洋画、第二次世界大戦まで

1928年、佐伯祐三は、30歳の若さで結核のため2度目の滞仏中に没している。日本の洋画壇にとって大きな痛手であったが、一九三○年協会の第4回展(1929年)にパリの街角をひたむきに描いた佐伯の遺作が陳列され、多くの画家に強烈な影響を与え、かつ、彼の洋画に対する熱情は、様々なかたちで受け継がれていったことだろう。他界する直前に描かれた『サンタンヌ教会』は、色彩は抑制され、無彩色に近い筆致が印象的である。おそらく死を予感していたのであろう。点描的に配された母子は生への渇望であり、霞むように描かれた教会に向かう男は佐伯自身であるように思えてならないのである。1924年、里見勝蔵の案内でヴラマンクを訪問、彼からアカデミックと一喝されるというフォーヴィスムの洗礼を受けてからというもの、一気に自己の画風を昇華させて、抒情的な雰囲気に満ちた作品を短期間に描いている。

佐伯が逝去した2年後に、もう一人重要な作家が没している。それは、情熱的な佐伯とは対照的に理知的な雰囲気を感じさせる前田寛治で、33歳の若さであった。1922年から3年間をパリで学び、画風としてはフォーヴィスムにひかれながらも、前田寛治はアングルやクールベらの写実的な表現を学んで、ヨーロッパの絵画に深く流れるレアリスムの重さを自己の表現の根底に組み込んでいる。堅固な作風を見せる滞欧作『風景』(1924年)、力強い筆致が魅力的な『裸婦』(1928年)、そして、重厚な色面によって構成された『赤い帽子の少女』(1928年)と、それぞれ違った作風であるが、それらは静寂に満ちた深さが感じられる。

1923年9月に起こった関東大震災によって大正時代独特の雰囲気と決別するという時期と、1937年に勃発した日華事変の頃から軍国主義の足音は次第に強くなって、1941年、太平洋戦争に突入、1945年の敗戦に至るという時期は、大きく社会変革のあったときであり、この2つの時点で洋画の歴史も区分できる。

この間における洋画史上の事項としてまず挙げなければならないのは、佐伯祐三、前田寛治の他、里見勝蔵、小島善太郎、木下孝則によって、1926年に結成された一九三○年協会である(直後に林武、野口弥太郎らが加わる)。彼らはパリで自由な空気を精一杯呼吸する体験を持つ若い画家たちであった。宣言というべき文章のタイトルは「純真を慕ふ」であり、「フォンテンブローのコロオ、ミレエ、ドーミエの1830年派の様に愛と尊敬と芸術を持った展覧会を起さうではないか、(中略)常に私達の不断の努力は必然1930年も意義ある年である」(『みづゑ』1926年7月号)という言葉から、彼らの共通する気分と決意を知ることができる。しかし、意義ある年にすることを誓った1930年に自然解散をむかえ、かわってこの年に誕生したのが独立美術協会であった。

この設立に参加した作家は林武、川口軌外、児島善三郎、三岸好太郎、里見勝蔵、清水登之、高畠達四郎ら13名で、その「独立宣言」には「新時代の美術を確立せむ事を期す」と記されていた。福沢一郎を会員に加えて翌年に第1回展を開き、その後、野口弥太郎、須田国太郎、小林和作、海老原喜之助らが会員となっている。「この百年、世界の美術界はあげてフランスの支配下にあった。今我々はその羈絆を脱する為めに独立を宣言する」という児島善三郎の発足時の言葉から、彼らが目指した「独立」の意味をうかがうことができる。

以前から続いている帝展(1937年から新文展)、二科会、春陽会や、新しく結成された新制作派協会(1936年)、一水会(1936年)、自由美術家協会(1937年)、美術文化協会(1939年)、さらには二科会の前衛画家らによって1938年に結成された九室会などを舞台に、様々な課題をかかえて、多くの画家が表現に腐心しているのである。

(森本孝)

作家名 生没年 作品名 制作年 材質 備考
藤島  武二 (1867-1943) 日の出(伊勢朝熊山よりの眺望 1930 油彩・キャンバス  
藤島  武二 (1867-1943) 海(日の出) 1931頃 油彩・キャンバス  
鹿子木孟郎 (1874-1941) 大和吉野川の渓流 1933 油彩・キャンバス  
赤松  麟作 (1878-1953) 白い扇 1941 油彩・キャンバス 吉樹幸子氏寄贈
須田国太郎 (1891-1961) 信楽 1935 油彩・キャンバス (財)岡田文化財団寄贈
木村  荘八 (1893-1958) 戯画ダンスホール 1930 油彩・キャンバス 中谷泰氏寄贈
北川  民次 (1894-1989) 海への道 1942 油彩・キャンバス  
里見  勝蔵 (1895-1981) 裸婦 1927 油彩・キャンバス  
前田  寛治 (1896-1930) 赤い帽子の少女 1928 油彩・キャンバス  
前田  寛治 (1896-1930) 裸婦 1928 油彩・キャンバス  
佐伯  祐三 (1898-1928) サンタンヌ教会 1928 油彩・キャンバス  
佐分   真 (1898-1936) 縁蔭 1927 油彩・キャンバス  
牛島  憲之 (1900-   ) 貝焼場 1935 油彩・キャンバス  
向井  潤吉 (1901-   ) 衣を脱ぐ女 1933頃 油彩・キャンバス 向井潤吉氏寄贈
鳥海  青児 (1902-1972) 紀南風景 1936 油彩・キャンバス  
三岸好太郎 (1903-1934) 二人の道化 1931頃 油彩・板  
吉原  治良 (1905-1972) 作品 1937 油彩・キャンバス  
村井  正誠 (1905-   ) 支那の町No.1 1938 油彩・キャンバス  
原   精一 (1908-1986) 緑陰裸婦 1935 油彩・キャンバス 原理一郎氏寄贈
森   芳雄 (1908-   ) 大根など 1942 油彩・キャンバス、板  
中谷   泰 (1909-1993) 風景 1930 油彩・キャンバス 中谷泰氏寄贈
中谷   泰 (1909-1993) 都会風景 1932 油彩・キャンバス  
寺田  政明 (1912-1989) 1937頃 油彩・厚紙  
靉    光 (1907-1946) 1937 墨・紙  
野田  英夫 (1908-1939) 風景 1932 水彩・紙  
原   精一 (1908-1986) 1926 水彩・紙 原理一郎氏寄贈
原   精一 (1908-1986) 少女像 1927 コンテ・紙 原理一郎氏寄贈
瑛    九 (1911-1960) 裸婦 1935頃 インク・紙  
瑛    九 (1911-1960) 人物 1935頃 インク・紙  
瑛    九 (1911-1960) 作品 1935頃 インク・紙  
松本  竣介 (1912-1948) 婦人像 1941 水彩・紙  
松本  竣介 (1912-1948) 風景 1946 墨・紙  
恩地孝四郎 (1891-1955) 円波 1935(1987再刷) 木版・紙  
恩地孝四郎 (1891-1955) 白い花 1941(1987再刷) 木版・紙  
恩地孝四郎 (1891-1955) 『氷島』の著書 萩原朔太郎像 1943(1987再刷) 木版・紙  
谷中  安規 (1897-1946) 虎ねむる 1933 木版・紙  
谷中  安規 (1897-1946) 瞑想氏 1933 木版・紙  
石井  鶴三 (1887-1973) 1938 ブロンズ  
橋本  平八 (1897-1935) 弁財天 1927   
橋本  平八 (1897-1935) 老子 1932  
橋本  平八 (1897-1935) 弱法師 1934  
新井  謹也 (1884-1966) 曼草絵鉢 1933 陶磁器 奥村東治氏寄贈
新井  謹也 (1884-1966) 草花文花瓶 1935 陶磁器 奥村東治氏寄贈
 

第2室:横山繰「瀟湘八景」

大正元年(1912)に開かれた第6回文展には当時、日本画壇を代表するふたりの大家横山大観、寺崎広業がともに「瀟湘八景」を画出品し、寺崎広業の古法に従った表現と横山大観の新しい解釈・表現との際立った対照に関心が集まり、おおいに話題を呼んだ。

瀟・湘はいずれも中国の川の名で、湘水は瀟水を合せてやがて洞庭湖にそそぐ。「瀟湘八景」とは、この瀟水と湘水の合流する辺りを含めた洞庭湖一帯の水景のうち八つの名勝を選んで称されている。一帯は、広大な江湖、沼潟、山顛といった景観に恵まれ、さらに水気の多い大気が、気象のたえまない変化に応じて、景観に多彩な表現を与えていたといわれ、まさに絵のような風景が広がっていた。

瀟湘八景は、平沙落雁・遠浦帰帆・山市晴嵐・江天幕雪・洞庭秋月・瀟湘夜雨・遠寺晩鐘・漁村夕照と名付けられ、それぞれに異なる四季四時事象を取り込んだ、変化に富む特徴的な八つの山水景から構成される。これを定まった画として描いたのは、北宋末(11世紀末)の文人画家宋迪にまでさかのぼるという。

しかし、この八つの画題は、特定の名勝の景観を事実に則して描写するために選ばれたわけではなく、湿潤な大気のなかに展開される四季四時気象光陰の絶え間ない変化のうちにさまざまにみせる山水の表情のヴァリエーションに対する興味に負うところが大きく、水墨画の多彩な技法を駆使するうえでの好素材として描かれてきた歴史をもっている。わが国の水墨画家に大きな影響を及ぼした中国の画家牧谿や玉澗の作品はいずれも、八つの画題がそれぞれがもつ多彩な表情と水墨の技法とが巧みに協調することによってうまれたものである。

中国で盛行した「瀟湘八景」は鎌倉時代の末期にはすでに日本に移入されていたが、室町時代から江戸時代にかけて、水墨山水画の代表的な画題のひとつとして我が国でも描き継がれた。

横山大観・寺崎広業は山岡米華ともども、明治43年(1910)に中国旅行を行っている。この旅行が各々の「瀟湘八景」制作の動機のひとつになったが、横山大観は、「寺崎君は何のために中国へ行ったのか、行ったときの景色は一つもなく、中国人の描いた絵をそのまま写してゐるとは…」と、寺崎広業のこの文展出品作品に対する所感を後に述べている。寺崎広業がモティーフや表現にみせたとされる古様は、横山大観のいうように「中国人の描いた絵をそのまま」写したというよりは、むしろ、日本において、江戸狩野あたりで固定化された画体から自然に引き継いだ作風と考えたほうがよさそうだが、それが現在大観の代表作として鳴る「瀟湘八景図」(東京国立博物館蔵)と並んだとき著しく古様にみえたのは当然である。大観の作品は、伝統的な水墨ではなく、彩色を用い、八景個々の主題も、たとえば遠浦帰帆を遠浦雲帆に変えるなど伝統に束縛されることがない。また作品の醸し出す雰囲気は、この展観を訪れた夏目漱石が美術批評「文展と芸術」のなかで評したことば、「脱俗の気は高士禅僧のそれと違って、もっと平民的に呑気なもの」に端的に表されている。大観の志向は、伝統的な筆墨の様式に寄り掛っていた広業と違って、伝統から決別する方向をめざしていたのである。

昭和38年(1963)年、個展「越後十景展」に出品した「雪原」「海」といった作品で水墨の大作を初めて試みた横山操は、さらに本格的な水墨作品としてこの「瀟湘八景」を発表している。加山又造によると、横山はそのころ宋元の水墨山水画を熱心に研究していたという(「横山さんの絵によせて」『画集 横山操』)。

この「瀟湘八景」を大観のものと比較してみると、はるかに伝統に忠実につくられていることがわかる。彩色は用いず、古来の水墨に徹している。主題も、大観のように、あえて宋迪以来の形式を崩したりはしない。

反伝統的な、言い換えれば近代に適合する瀟湘八景をめざした大観の作品は、近代の日本画を代表する名作として扱われ、操も制作に当たってその存在が念願を過ぎったに違いない。日本画と洋画の違いは材料の違いにのみにある、といったのは菱田春草であったが、大観の瀟湘八景も春草の考えを作品の上に示したものであった。操が彼らに同調する姿勢をみせず、「日本画と洋画は、材料どころか、本質、成立、表現ともに、相反していると思うものだ」(「独断する水墨」昭和45年)と語り、この作品で大観を飛び越して瀟湘八景の伝統的な姿に立ち戻ろうとしたことは、とりもなおさず、大観たちが創り出した近代日本画の新しい伝統に立ち向かい、それを否定しようとしたことを意味している。しかし、出来上がった作品が、決して古風なもので終わらなかったのは、「山市晴嵐」で爆発させ、「漁村夕照」に押し込められた情念のようなものが、ひとつの世界をかたちづくっているからに他ならない。

(山口泰弘)

作家名 生没年 作品名 制作年 材質 備考
横山   操 (1920-1973) 瀟湘八景

 

 -平沙落雁

 

  遠浦帰帆

 

  山市春嵐

 

  江天暮雪

 

  洞庭秋月

 

  瀟湘夜雨

 

  烟寺晩鐘

 

  漁村夕照
1963 紙本墨画  
 

第3室:西洋の美術-スペインの美術を中心に

しばしば「20世紀の巨匠」といった呼称を冠せられる3人のスペイン人画家、すなわちパブロ・ピカソ、ジョアン・ミロ、サルバドール・ダリはいずれもカタルニャ地方の出身である。3人はともに、比較的早い時期にスペインを離れてパリを中心とする国際的な美術運動に参加、活躍し、それぞれに高い評価を得た。そのせいかどうか、一般に彼らがスペイン出身であることは知られていても、たとえば、ピカソが彼の芸術の形成に重要な影響を及ぼした十代後半をバルセロナで過ごしたということ、あるいは当時のバルセロナではサグラダ・ファミリア教会で知られる建築家アントニ・ガウディらが活躍していたということなどは、案外意識にのぼることが少ないように思われる。

19世紀末のヨーロッパには、産業の発展に伴う人口の増加とともに都市が急成長し、その活発な雰囲気のもとで世紀末芸術が開花した都市が少なくない。カタルニャ地方の中心バルセロナもその一つで、アール・ヌーヴォーのスペイン版というべき〈モデルニスモ〉の運動が展開されていた。〈モデルニスモ〉は、美術に限らず文学、思想など文化全般において旧態依然としたものを打ち破り、時代にふさわしい新しい表現を求める運動として、ヨーロッパ各地で展開された同様の運動と相通じる普遍性を備えている。しかし他方で19世紀後半のバルセロナでは、スペインのなかでもとりわけ独自の文化的伝統を有するカタルニャ文化の復興運動(=カタルニャ・ルネサンス)が盛んでもあった。カタルニャ・ルネサンスの波は美術、文学、音楽、思想から政治、経済と広範にわたっていた。20世紀末の文化的状況のなかでもきわめて重要な問題を提起している国際主義と民族主義との関係は、ちょうど百年前のカタルニャにおいて、豊饒な文化の土壌となり得る緊張した状況を生みだしていたといえよう。

その一例がガウディである。バルセロナを離れることはほとんどなかったガウディであるが、彼の仕事が確実にアール・ヌーヴォーの流れと反響しつつ、しかもその中でも地方的特色を反映した最も独自の達成をなし得たのは、彼個人の天才によると同時に、当時のカタルニャの文化的状況が大きく寄与していると思われる。同様に、19世紀末のバルセロナで10代後半を過ごしたピカソ、世紀末のバルセロナに生まれ、ここで画家としての歩みを開始し、その後もパリとカタルニャを往き来し続けたミロ、やはりカタルニャ地方出身で、この2人の影響のもとにシュルレアリストとして歩んだダリの場合も、彼らがパリを中心に活躍し獲得した国際性と、彼らの根にあるカタルニャ文化とは、それぞれに複雑で深遠な、それでいて実り豊かな関係を結んでいると考えられる。

展示作品中のピカソの「ジプシーの女」は、1900年10月の最初のパリ訪問の直前に描かれたと考えられる。ピカソはこの年の2月に〈モデルニスモ〉の旗手たちのたまり場であったカフェ「四匹の猫」で初めての個展を開催したばかりであった。全体の雰囲気はノルウェー出身の画家ムンクを強く想起させる北方的憂愁に満ちている。女の暗い情念は、細部を省略された彼女の顔、とりわけ底知れない深みを暗示する眼を通じて充分に表現されている。ただしその背後に広がっているのは、ムンクの作品で見慣れたあの暗く沈んだ北方の海ではなく、まぎれもなく光まばゆい地中海である。ピカソが20世紀の美術史において演じた混沌と豊饒を併せもったディオニュソス的役割は、遠くこの地中海に由来するもののようにも思われる。

(土田真紀)

作家名 生没年 作品名 制作年 材質 備考
バルトロメー・エステバーン・ムリーリョ (1617-1682) アレクサンドリアの聖カタリナ 1945-50 油彩・キャンヴァス  
スルバラン派の画家   聖クロス 17世紀 油彩・キャンヴァス 有川一三氏寄贈
ジョアン・ミロ (1893-1985) 女と鳥 1968 油彩・キャンヴァス (財)岡田文化財団寄贈
パブロ・ピカソ (1881-1973) ロマの女 1900 パステル・油彩・紙 寄託品
ホセ・ルイス・アレクサンコ (1942-   ) ソルダイヴァー 1990 油彩他・キャンヴァス  
ゴヤ (1746-1828) 版画集「戦争の惨禍」 c.1810-20 エッチング・紙  
パブロ・ピカソ (1881-1973) 女の顔 不詳 陶板画 寄託品
パブロ・ピカソ (1881-1973) ふたつの裸体 1909 ドライポイント・紙  
ジョアン・ミロ (1893-1985) アルバム13 1948 石版画・紙  
ジョアン・ミロ (1893-1985) 岩壁の軌跡 1967 アクアチント、エッチング・紙
エドゥアルド・チリーダ (1924-   ) ビカイナXVI 1988 エッチング・紙  
エドゥアルド・チリーダ (1924-   ) エルツ 1988 エッチング・紙  
オディロン・ルドン (1840-1916) アレゴリー 1905 油彩・キャンヴァス  
クロード・モネ (1840-1926) ラ・ロシュブロンドの村 1889 油彩・キャンヴァス (財)岡田文化財団寄贈
オーギュスト・ルノワール (1841-1919) 青い服を着た若い女 1876 油彩・キャンヴァス (財)岡田文化財団寄贈
ジョルジュ・ルオー (1871-1958) キリスト磔刑 1939 油彩・紙、キャンヴァス (財)岡田文化財団寄贈
マルク・シャガール (1887-1985) 1956-62 油彩・キャンヴァス (財)岡田文化財団寄贈
 

ギャラリー、ロビー

作家名 生没年 作品名 制作年 材質 備考
足代  義郎 (1909-1989) 木枯 1982 油彩・キャンバス  
菅井   汲 (1919-   ) 愛人たち 1988 リトグラフ・紙  
加納  光於 (1933-   ) 版画集「稲妻捕り」 1977 リトグラフ・紙  
中西  夏之 (1935-   ) 白いクサビ-日射の中で 1987 銅版・紙  
イサム・ノグチ (1904-1988) スレート 1945  
柳原  義達 (1910-   ) 赤毛の女 1956 ブロンズ  
佐藤  忠良 (1912-   ) 円い椅子 1973 ブロンズ  
リン・チャドウィック (1914-   ) 三角 Ⅲ 1961 ブロンズ  
浅野  弥衛 (1914-   ) 作品 1986 木・オイルスティック  
浅野  弥衛 (1914-   ) 作品 1986 木・オイルスティック  
向井  良吉 (1918-   ) 発掘した言葉 1958 ブロンズ 向井良吉氏寄贈
清水九兵衞 (1922-   ) FIGURE-B 1986 アルミニウム  
飯田  善國 (1923-   ) Xのコンストラクション 1987 木・著色麻ロープ  
多田  美波 (1924-   ) 1982 テラコッタ・ステンレス  
保田  春彦 (1930-   ) 都市1・試作(1) 1985 鉄・赤錆  
保田  春彦 (1930-   ) 都市2・試作(2) 1985 鉄・赤錆  
江口   週 (1932-   ) 漂流と原形 1981 木(樟)  
江口   週 (1932-   ) ふたたび翔べるか-柱上の鳥 1988 木(樟)  
オシップ・ザッキン (1890-1967) ヴィーナスの誕生 1930 ブロンズ 岡三証券寄贈
瀧川  嘉子 (1937-   ) 境-No.6-1986 1986 板ガラス  
林   克次  (1943-   ) しりあい 1982 陶器  
 

屋外彫刻

作家名 生没年 作品名 制作年 材質 備考
多田  美波 (1924-   ) 作品91 1991 ステンレススティール  
井上  武吉 (1930-1997) my sky hole 82 1982 鉄・ステンレススティール  
井上  武吉 (1930-1997) my sky hole 85-6 1985  
湯原  和夫 (1930-   ) 無題 1982 鉄・ステンレススティール 井村屋製菓寄贈
番浦  有爾 (1935-   ) 1990 ブロンズ  
田畑   進 (1944-   ) NOKOSARETA-KATACHI 1982 ステンレススティール  
八ツ木 のぶ (1946-   ) 象と人(異邦の夢) 1988 ステンレススティール、ウレタン彩色  
梶    滋 (1951-   ) 円柱とその周辺 1986 アルミニウム  
松本   薫 (1952-   ) Cycle-90° 1992 ステンレススティール  
ジャコモ・マンズー (1908-1991) ジュリアとミレトの乗った大きな一輪車 1973 ブロンズ 百五銀行寄贈
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