このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

サイト内検索

美術館 > 刊行物 > その他 > その他(報告書など) > 「美術館コレクション第3期展示、第1室:昭和の洋画-1:風景と抽象」より 石崎勝基 欅しんぶん 2005.9

「美術館コレクション第Ⅲ期展示、第1室:昭和の洋画-1:風景と抽象」より

須田國太郎《信楽》、鳥海青児《紀南風景》、桂ゆき《作品》、宮崎進《石狩》、香月泰男《芒原》と並べば、そこに共通点を見出すのは決して難しくはないことでしょう。タイトルからして風景が描かれており(桂の場合は風景と呼んでいいものか判然としませんが)、ただ実際の風景をこと細かに写実したものとはいいがたく、絵具を引きずるような筆致であったり記号化された描き方であったり、いずれにせよ多くは茶色っぽい調子が画面を覆う中(鳥海の場合は暗い緑の役割も大きいのですが)、個々の物の形というより、物なり形を包むひろがりが、それぞれの密度そして雰囲気とともに表わされています。

物を包むひろがりが茶色と結びついたのは、偶然ではありますまい。茶色はただちに、土や砂、地面を連想させます。青が連想させる水や空気、黄が連想させる光もまた、物を包むひろがりを表わすことはできるでしょう。しかしこれら以上に茶色/大地が、安定感のある支えといった性格になじむであろうことは、たやすく予想できるところです。十六世紀ヴェネツィア派以降の西欧近世絵画が、しばしば茶色を基調とし、実際茶色の地塗りの上に描かれたのは、明暗法の調整に便利だからというだけでなく、茶色のこうした性格と無関係ではなかったと考えることもできるかもしれません。

冒頭に挙げた作品たちは、この意味で、西欧近世絵画の伝統に連なるわけですが、しかし他方、後者がめざした目標の少なくとも一つであった現実の再現は、先にふれたように、前者ではあまり重視されていないというべきでしょう。西欧においてもこの時期、近世絵画を律してきた枠組みは壊れてしまっていましたが、その直接の反映というには事情が錯綜するにせよ、西欧絵画のレアリスムを輸入した近代日本においても、時をさほど置くことなくレアリスムとは異なる方向に目が向けられたわけです。

この時各画面は、おのれを組みたてるさまざまな要素のあり方に応じて、表情を変化させます。たとえば桂と香月の作品を比べてみましょう。双方縦長の画面で、明るさは異なるとはいえ茶色の地塗りが施され、その上に段差をもって、地とは明るさを変化させた茶色の、やや厚めのひろがりがのせられています。これだけ共通項を有しながら、二つの作品の表情は似ているとはいいがたいのではないでしょうか。桂の柔らかみがあり濡れた絵肌の質感は香月では堅く乾き、桂では明るい茶色の細長い点というか楕円の群れが、生きものめいた流動感をしめすのに対し、香月では左上の絵肌を削ってつけられた跡の群れが、物やイメージが去ってしまった後の空虚を物語るかのようです。

ただあえて強弁するなら、両作品はそれぞれの手法・それぞれの情調でもって、個々の事物ではなく、その奧にあって個々の事物を生ぜしめ、支えるひろがりを、茶色に託して浮かびあがらせようとしたのだと、解することはできないでしょうか。これこそが、レアリスムを成立させたものの見方が有効性を失なった時点で、具象的なイメージを扱う絵画が踏みこまざるをえなかった領域であり、それは実は、抽象的な画面でも同じであるとすれば、抽象以降の具象は、ことさらに具象と呼ばれることもなかったかつての具象よりむしろ、抽象にこそ近しいはずなのです。

いささか性急にまとめてしまったようです。桂と香月だけでなく、上に挙げた作品、さらに他の作品もそれぞれ、さまざまな変化と固有の表情をしめしています。ここはそれらを一点ずつ、具体的にながめるという作業を続けるべきところなのでしょう。

(石崎勝基・学芸員)

欅しんぶん、no.162、2005.9.21

ページID:000056069