30歳という若さで亡くなった野田英夫(1908-1939)は、カリフォルニアで生まれ、3歳のとき、日本で教育を受けさせたいという両親の意思で、熊本にいる父方の叔父に預けられました。そして18歳のとき、アメリカ市民権の有効期限が過ぎるため単身渡米。ハイスクールを卒業後、カリフォルニア美術専門学校に入学、アメリカ人女性と結婚し、26歳のときには画家として認められるようになりました。
野田の作品は、よくいわれることですが、アメリカと日本という二重の国籍をもつがために、精神的なよりどころが分断された状態が表現に潜んでいるようです。異なるイメージが継ぎ合わされ、重なり合って画面が構成される、モンタージュ的手法。それが野田英夫の作品には多く見られ、そこが魅力でもありますが、今年度当館が収蔵した油彩画《風景》には、そうした手法は使われていません。
しかし、先ほどの視点でこの作品を眺めてみれば、荒涼とした冬空のもと、一本の道が二手に分かれていくさまは、野田自身の心象が反映されていると受け取ることができると思います。
今回のコレクション展では、上記の《風景》と野田英夫の水彩画以外に、戦前渡米した経験のある洋画家の作品を展示します。20世紀美術を語るうえでアメリカ人作家の果たした役割の大きさは言うまでもありませんが、戦前までに限って言えば、日本の芸術家たちの目指すところはヨーロッパであり、なかでもフランスでした。
油絵の伝統の地・ヨーロッパから凱旋帰国し、安定した地位を得る-洋画家にとっての王道ともいえるこの路線は、名家出身の画家や幸運な画家であれば難なく実現できたことでしょうが、片やヨーロッパへ行くために、先ずアメリカで資金を稼ぎ渡欧した画家たちもいます。初期の例としては、三宅克己(1897年渡米)や中川八郎、鹿子木孟郎、満谷国四郎らがあげられます。
明治から大正にかけて、日本的題材は欧米人の間でブームとなっていたので、彼らの多くは日本で描きためた作品を携えて渡米し、現地での展覧会を通して資金を稼ぎました。それからしばらくして1906年には萬鉄五郎、国吉康雄が、その翌年には清水登之が渡米しています。
萬はアメリカ東部での美術研究を目指しましたが夢かなわず年内に帰国、一方、国吉や清水は労働者として各地を転々としながら美術学校へ通い、当時のアメリカン・シーンを代表する画家たちとも知遇を得、アメリカの新しい美術の動きを目の当たりにしながら独自の画風を育みました。
アメリカの社会と人々の生活に視点をあてた野田、国吉、清水らの作品は、近代日本洋画史の傍流といえますが見逃すことのできない魅力があります。
(ty)
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年報 三重県立美術館コレクション展(2006.3)
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