絵画は一種の記号だとクレーがいうとき絵をみるそれまでの視線はちょっと揺らぎはじめる。視線はそのときはじめて自分がなんであるかをふりかえるからだ。ふりかえって、そのまま絵にもどってこない視線もでてくるわけだが、クレーのばあい、たぶんそこまではゆかない中間の領域で絵を読む視線と絵をみる視線が微妙なバランスをとっている。『R荘』という作品に登場するローマ字の「R」にあってはややそのバランスがくずれ、「R」が絵から浮いてしまう異和感があったけれど、この『河下り』の「矢印」はそういう心配などまったくないだろう。絵をみる視線はそれが記号であることを認めた瞬間に変身するので、それが絵を絵にする視線の邪魔になることがないどころか、「矢印」であることそのことで絵の運動感をさらに自然にちかづけてしまう。つまり「矢印」が視線に運動の指令を発するや視線そのものがたちまち動きだして、その運動は絵の隅々にまでやがて波及してゆくからである。そしてクレーがみていたはずの光景を再現するのではなくなり、そこに参加する視線がクレーとともにみたいと願う光景が束の間の幻影のように浮かびあがる仕掛けになっている。永遠にいつまでもみる/みえるということではない。こういうクレーのかんがえが物理学者ハイゼンベルクの「不確定性理論」と同時代にあらわれたということはけっして偶然の一致ではないだろう。 (東俊郎・学芸員) 『パウル・クレー展』より |