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ジョルジュ・ブラック『イーゼルに向かって座る女(黄色いついたて)』

1936年 油彩・カンヴァス 130.8×162.2cm メトロポリタン美術館蔵

 ジョルジュ・ブラックが残したことばには、東洋の賢者に通ずるものがいくつかあって、その響きには一読わすれがたい味がある。そのなかで、いちばん知られているものといえば、「壺は空虚に、そして音楽は沈黙にかたちをあたえる。」ではないだろうか。そこからこんな系も生れる。「太鼓の音を聞くひとは静寂を聴く。」すると、ブラックにしたがえば壺をみることは空虚をみることにひとしい、といってもよさそうに思われる。絵画をみることは無をみることだ、とも。しかしこれだけではブラックの「空観」を十分かたったことにはならないので、そのためには、「見諸相非相」を「諸相ヲ非相トミル」ではなく「諸相ト非相ヲミル」と読んだ道元とおなじ視線のもとにかれをおかなければならない。つまり、絵画をみるとは有と無とをひとしくみることだという二重の視線こそ、すぐれてブラック的だという風に。そのとき空虚には風のように色がつく。無明のせかいを逞しくあるききったピカソのアクのつよさにくらべると、いまひとつものたりなさが残るのも、じつにこういった精神のはたらきかたによる。この精神は明晰で、つつましく、それゆえ深さがある。『草枕』の漱石にならって「非人情」といっていいかもしれないブラックのこのものの見方は、それゆえ必然的に、ものの味方でもある。ようするに人間中心ではない。たとえば『イーゼルに向かって座る女(黄色いついたて)』の女は女ではなく、衝立もまた黄色でもない、といってみたくなる。自分を描いている女より描かれた女のほうが人間にちかいし、そのことで二つの人物像は相殺され、よってもってすべてはパレット上の三原色と白(と黒)が生みだした幻、あるものはなく、ないものがあって、だからほんとうに描かれているのは空虚以外のなにものでもないというかんがえに導かれる。無色の無がかさなり、空の線が空を切る。やがてブラックがみえない空間にみえない軌跡をのこす鳥の透体脱落したかたちをかくようになってゆくのは、けだし自然のなりゆきといえるだろう。

 

(東俊郎・学芸員)

 

ジョルジュ・ブラック回顧展』(1998)より

 

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