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理想か自然か―ハドソン・リヴァー派のジレンマ―

生田 ゆき

 古代の画家デメトリウスは最高の賞賛を博せずに終わった。というのは、彼は対象を美しく描くというよりも、自然その才まに似せようと磨く望んだからである*1

*1 レオン・パッティスタ・アルベルテイ、三輪福松訳、『絵画論』〈新装普及版)、中央公論美術出版社、平成4年、P.67。

 太平洋に浮かぶ永遠の楽園ハワイ。人々がその名に抱く華やぎに比して、同地唯一の総合美術館ホノルル美術館を知る人は少ない。1927年より刻まれる歴史において西洋近代美術の代表作がかように集中的に海を越えたのは、昨今ではお馴染みの「改修工事に伴う」幸運の賜であった。

 

 当館の構成上、出品作品は4区分を施し展示された。19世紀以降ヨーロッパで活躍した馴染み深い画家たちに囲まれ、とぎれとぎれのモダン・アートの足跡を手繰る我々は、いつしか古ぼけた風景画が眠る第3室へ足を踏み入れている。

 

壁一面を占拠するのは、今日では「ハドソン・リヴァー派」と総称される、19世紀後半以降アメリカ合衆国(以下アメリカと略す)で隆盛を誇った風景画の一群である。彼らはある時には第2次世界大戦後の世界の美術地図を塗り替えたアメリカ美術の開祖に祭り上げられ、別の場面ではヨーロッパの偉大な伝統の末席に連ねられ、さらには微細で執拗な細部描写にシュルレアリスムの予兆を見たりと、あらゆる側面からの再評価の声が喧しい。元来、アメリカ東北部を走るハドソン川上流を主な題材としていた(この定義とてすべてに該当しないが)という点を除き、さして明白な態度表明の下に馳せ参じた有志ではなかったため、その現れも多様かつ不安定である。このような状況をふまえ、本考ではアメリカを活躍の地と定めた画家たちが、アメリカ美術のアイデンティティーを模索するにおいて、彼らがいかにしてヨーロッパに脈々と受け継がれてきた芸術思潮と対峠し、何をもって自らの芸術の根幹とみなしたかを確認することとしたい。

 2枚の絵から始めよう。

 

 一枚は本展出品作、ウィリアム・ガイ・ウォール(1792−1864頃)《キャッツキル山脈のコータースキル滝》(『ホノルル美術館展』図録,NO.45,fig.1)、もう一枚はトマス・コール(1801-1848)《コータースキル滝》(fig.2)。一見して同地同構図。サイズも制作年も酷似するこのような作例には、主題としての場所の人気の高さと同時に、ハドソン・リヴアー派の特質が伺い知れる。迫り来る峡谷。彼方に広がる山脈。雲は泡立ち、木々は一斉に色づく。画面の隅々まで行き届いた細密描写は圧倒的で、見る者の感覚を揺さぶる。ここでは人の手の未だ及ばない、神の作り賜う原初の自然を残すと信じられていたアメリカの風景が高らかに謳い上げられている。

 

 しかし同時に両者には見過ごしがたい差異も存在する。

 

 ウォールの穏やかな夕日が映える空をコールは不穏な嵐の前兆へと変えてしまった。黒い雨雲が重くのしかかり、今や針のような一束の雨が森を刺す。ウォールでは申し訳程度に落ちていた滝にコールは豊かな水量と凄まじい飛沫を付け加えた。ウォールの楽しげな観光客たちは一体どこへいってしまったのであろう。コールの峡谷には人間の痕跡は希薄である。

 

 イギリスのランカシャーに生まれ、17歳で家族とともにアメリカに移住したコールは1825年に初めてハドソン川流域の写生を行った。しかしヨーロッパの芸術に深く根を下ろすアカデミーの価値体系は画家の筆に影を投げ、忠実な自然主義者となるのを許さなかった。

 

 コールのそのような性急な人文主義的傾斜はパトロン達を困惑させこそすれ、満足させるものとは言い難かった。《コータースキル滝》制作と同年、バルティモアの富裕な商人ロバート・ギルモーJr.との間に交わされた書簡には両者の温度差が色濃く現れている。《キャッツキル山脈の日の出》(fig.3)の構想を語る段において、ジェームズ・フェニモア・クーパーの小説を参考にしたいという画家の申し出に注文主は難色を示した。

fig.1 ウォール|キャッツキル山脈のコータースキル滝|

fig.1 ウォール|キャッツキル山脈のコータースキル滝|1826-27頃

 

fig.2 コール| コータースキル滝|

fig.2 コール| コータースキル滝|

1826

 

 

fig3 コール|キャッツキル山脈の日の出|1826

fig3 コール|キャッツキル山脈の日の出|1826

 「しかしながら、私たちが自国の景色を素描したり、彩色したりする上で、真実こそがなによりも本質となります。(中略)ドーティは自然から学び、描いている限り、彼の絵画は喜ばしいものでした。なぜなら彼が描いた景色は現実のものだったからです。葉群は変化に富み一様でなく、ごつごつした大地や岩場、そこに生える苔までも、理想的なものではなく、まさに実物に基づいているという印象を与えたからです。私の意見では、ドーティの構成(composhitions)は今述べたすべての点で失敗に陥っています*2」。

 

手紙は念を押す形で締めくくられる。「私が以前お話しした言葉を繰り返すのみです。私は構成よりアメリカの真の景色が欲しいのです*3」。

 

コールの初期の重要なパトロンであったギルモーは、他の画家の作風を批判する形を借り、婉曲さを装いながらもコールが進まんとした路線に対して鋭い警鐘を鳴らしている。ドーティの名はそのままコールに置き換え可能である。注文主が求めたものは、アメリカ東北部に拡がる汚れ無き自然の、ありのままの描写の冴えであった。

 

これに対する画家の返答は以下のとおりである。

 

「構成とは、あなたがお考えになっている、ドーティ氏の作品を一例とするような失敗に陥りやすいものだとは決して思いません。もし私に誤解がないとすれば、歴史画においても風景画においても最もすばらしい絵画は構成されたものです。(中略)ご存じの通り、ドーティ氏は構成で失敗しました。恐らくその理由は簡単に見出されます。かつて彼がものの見事に模写していた自然の風景に立ち返ることなく、自分本位に描いたからです。(中略)しかし自然から遠ざかることは、構成された絵画の必然的な帰結ではありません。それどころか最も愛らしく完璧な自然の諸部分が、一つの景観から描かれたいかなる絵画をも、美しさと効果において凌ぐような作品全体の中に持ち込まれ、組み合わされるのです*4」。

 

 二人のやりとりを含みつつ再度《キャッツキル山脈の日の出》を見るならば、いかにコールがギルモーが求めた「真の景色」と自らの芸術的心情を調停させたか伺い知れよう。画面後景において煙る霧と湿気を帯びた冷ややかな大気の描写、朝日を浴びて輝く木々の緑のみずみずしさ。いかにもそれらは大地にみなぎる精気を発散している。しかし前景に目を転ずれば、コールの絵ではお馴染みの無惨になぎ倒された木や苔むした切り株が、あたかもスポットライトを浴びるかのように、いささか唐突ながらも周到に配置され、背景とコントラストをなしている。

*2 ギルモーがコールに宛てた1826年12月13日付けの書簡。

EarlA Powell,Thomas Cole, Harry N.abrams,Inc.,pubishres, New York,1990,P.30.

 

 

*3 ibid.,p.30

 

*4 コールがギルモーに宛てた1826年12月25日付けの書簡。『ハドソン・リヴァー派の世界展』カタログ(静岡県立美術館ほか1988年)、P.13。

また別の箇所では以下のように述べている

 

「〈芸術〉のなかの自然とは、偶然のできごとではなくて、本当の〈自然〉を模倣することを意味し、単に自然を手あたりしだいに描くというような平凡な模倣ではな い。自然がすべて真実であるとは限らない。発育が止まった松一枯れた無花果の木、花びらが不完全な花は真実ではない。(中略)芸術における模倣は〈自然〉のなかのできるだけ完全なものを模倣すべきであり、〈自然〉によって示唆された原則を実行するものでなくてはならない(B・ノヴァック著、黒沢眞里子訳、『自然と文化 アメリカ風景と絵画1825−1875』、玉川大学出版部、2000年、P.75。

 

しかしながらこれらの文章から、コールが自然の直接観察を軽視していたと断ずるのは早計である。ギルモーへの返信からも明らかなように、コールは自然に即した描写を制作の土台と考えていた。ギルモーが砲いた懸念も、コールのその後の《風景−『モヒカン族の最後』より》のような実作例を目にした後は、画家の姿勢に理解を示し始めた。

 

 対象の単なる再現を越え構成の重要性を説き、画家が直に知り得たものと想像で生み出したものを等しく評価するコールの態度は、1829−32年、1841−42年の二度のヨーロッパ滞在の後確信となる。同時代の英国絵画を「虚飾」と言い捨て「構図を忘れている」と批判し、ターナーの絵画を「透明で優美」な「ゼリーや菓子」になぞらえた*5コールの胸の内には、17世紀のローマで花開いた偉大なる「理想的風景画*6」の伝統にアメリカの風景画を連ねようとする野心がもたげたに違いない。さらに、ヨーロッパ大陸ではもはや入手不可能なもの、すなわち、茫漠たる荒野を舞台とすることで、アメリカ独自の風景画を確立せんと息巻いた。

*5 『ハドソン・リヴァー派の世界展』カタログ、P.15。

 

*6 「理想的風景画」については以下を参照せよ。Margaretha Rossholm lagerlof,Ideal landscape : Annibalecarracci, Nicolas poussin, and Claude Lorrain, Yale University Press, New Heven and London,1990,pp.17-21

 その集大成とも呼べるものが連作《帝国の進路》(図版は第3作《帝国の完成》(fig.4)である。ヨーロッパ滞在中に温めた構想を下敷きに、「今まで見た中で最も優れたクロードの作品」と絶賛する《シバの女王の船出》(fig.5)に構図を借り、自然の推移の不変性を背景に人間の営みの無常さを際だたせ、5枚より構成される壮大な叙事詩が完成したのであった*7

 

 コールの砲えた葛藤は当時の先進的画家に広く共有された。彼らもまた大西洋を渡り、イギリス、イタリアを歴訪した。ルネサンスの巨匠たちの妙技を堪能し、イタリアの黄昏に古典古代の面影を重ねた画家たちは、各々アメリカ絵画の進むべき道についての思いを胸に国々を駈け、美術館の門をくぐった。何を表現の核とするべきか。その決意には様々な思惑が錯綜する。

 

 当時のアメリカでコールと双璧をなすとされた風景画家アッシャー・B・デュランド(1796−1886)の残した言葉は示唆に富む。デュランドはニュージャージー州出身、版画、肖像画、風俗画を手がけた後、コールの芸術に感銘を受け、風景画専門へと転向した。しかしながら、コールが心酔したクロードに対してデュランドの評は手厳しい。アメリカの友人に「まあ全体的には少なくとも失望ではないにしろ、期待を越えるものではなかったと言わねばならない*8(1840年6月22日ロンドンにて)」と書き送り、さらに、イタリアヘの道中、ジュネーブからの妻宛の、よりプライベートな書簡には、「これまでは絵を勉強してきたが今は自然を勉強するという望ましい変化が起こっている。自然もまた最高に荘厳で美しくすばらしい*9」と、プラグマティックな心情を吐露している。

 

 アメリカ芸術批評では最初の定期刊行物『クレヨン(The Crayon)』誌上にて、デュランドは帰国後1855年1月から5月にかけて、風景画についての持論を書簡の体裁を用いて発表した。

 

「パレットや筆ではなく、鉛筆と紙を手にしなさい。そして真の風景を感覚にのみうったえる新奇な絵からは沸きださない、感情や表現として認識されるあの名状し難い性格をもって、細密に、忠実に描きなさい*10」。

 

 コールが選択模倣による現実の理想化を主張したのに対して、デュランドは写実主義の充実を強調した*11。彼の成果は《川の情景》(fig.6)によく現れている。穏やかな午後の光に包まれ、牛たちはゆっくりと歩みを進める。壮大な構想は影を潜め、画家はただ自然の奏でる調和に静かに耳をすませるのみである。デュランドのこのような作例からは、ジョン・コンスタブルやさらにはバルビゾン派へと続く道が見える。

*7 コールは作品制作のみならず、インスタレーションの図面まで作成していた。『ハドソン・リヴァー派画集(ピナコテーカ・トレヴィル・シリーズ7)』、人美伸子解説、トレヴイル、1996年、P.84、挿図5。

 

*8 ノヴァック,前掲書,P.238。

 

*9 同上,P.238。

 

*10アッシャー・B・デュランド「風景画に関する書簡」より。『アメリカ絵画の光と風一新世界の20世紀に向けて』展カタログ(大丸ミュージアムほか、1996年)、P.102、脚注2。

 

*11デュランドはハドソン・リヴァー派の中で唯一、戸外で作品制作を行った画家であった(他の者はスケッチは行うが仕上げはアトリエである)。

fig4. コール|帝国の完成|1836

fig4. コール|帝国の完成|1836

 

fig.5 クロード・ロラン|シバの女王の船出|1648

fig.5 クロード・ロラン|シバの女王の船出|1648

 

fig.6 デュランド|川の情景 1854

fig.6 デュランド|川の情景 1854

 デュランドの論者は広く普及し、多くの画家たちの道しるべとなった。自らの技量を誇示するもっとも効果的なモティーフを探し求めて彼らは進んだ。まだ誰も見たことのない場所へ。ある時は西部開拓最前線に。ある時は南米ペルーの奥地に。主題に自らのアイデンティティーをかけたのである。理想主義と写実主義。この両者を和解させ、かつアメリカ固有の美術を生み出すことが画家たちに等しく与えられた課題であった。

 

 フレデリック・エドウィン・チャーチ(1826−1900)の《エクアドルのアンデス山脈》(同No.52,fig.7)では誇張と修正が施されたとおぼしき後景の、あまりにも平らな高原は崇高さを演出するのに一役買っている。前景では一転して、学術的正確さで南米の植物が配置されている。仔細に検証すれば、作品は二つの世界に分断されているが、それを統合するのが、画面に充満する沈む直前に放たれた夕日の黄金の光である。

 

 チャーチが南米の熱帯の魅力に眩惑されたとするならば、トーマス・モラン(1837−1926)は西部開拓に自らを賭した。《イエローストーンの大峡谷》(同No.60,fig.8)では画面の大半を屹立する険しい山脈が占め、起伏に富んだ山肌には陽光が色とりどりに戯れ、大地の豊穣な色調をもり立てる。モランの絵を見たアメリカ東部のパトロンたちは、その雄大な頂に未知なる絶景へ好奇心をかき立てられると同時に、自国の領土が西へ西へと拡大していく充実感を重ね合わせたに違いない。

 

 2枚の絵で終えるとしよう。

 

 1枚はジョン・ヘンリー・ヒル(1839−1922)(同No.61,fig.9)、もう一枚はフレデリック・エドウィン・チャーチ《ナイアガラ》(fig.10)である。ヒルの例は制作年不詳とあるが、両者を比較するならば、チャーチの衝撃がヒルに影響を与えたと見て間違いない。横長のフォーマットに描かれ、画面を横切る水平線と、その一端からひかれた対角線からなる、極めてシンプルな構図であることがヒルの素描からわかる。

 

 チャーチの《ナイアガラ》はハドソン・リヴァー派の最も成功した例としてあまりにも有名である。垂直にえぐりとられた大地。絶え間なく落下する滝の一群。絵を見る者は思わず轟音に耳をふさぎ、水しぶきに体をよけそうになるだろう。画家は若き大国の象徴に相応しいスケールと活力とを兼ね備えた対象を探し当て、細部と整合性に流れることなく、崇高さを表出することのできる描写を完成させた。海を越えてイギリスからもあふれんばかりの賞賛を勝ち得たこの絵にも一抹の不安が脳裏をかすめぬわけではない。ヒルの例をひくまでもなく、このような大胆な構成は追随者を量産する危険性がある。さらにより致命的なものとして、一国のイコンたるモティーフは大量消費される運命を免れず、栄光ある国民的絵画が単なる名所絵葉書へと堕する転落は誰にも止めようがないであろう。言うまでもないが、この潮流はチャーチ一人に降りかかるものではなく、ハドソン・リヴァー流すべてが呑み込まれる危険性をはらんでいた。

 

(いくたゆき・学芸員)

fig.7 チャーチ|エクアドルのアンデス山脈|1855

fig.7 チャーチ|エクアドルのアンデス山脈|1855

 

fig.8 モラン|イエローストーンの大峡谷|1904

fig.8 モラン|イエローストーンの大峡谷|1904

 

fig.9 ヒル|ナイアガラの滝|制作年不詳

fig.9 ヒル|ナイアガラの滝|制作年不詳

 

fig.10 チャーチ|ナイアガラ|1857

fig.10 チャーチ|ナイアガラ|1857

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