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ダニ・カラヴァン《斜線 Diagonal》

1995年 スプルス材、金箔

三重県立美術館でひらかれたダニ・カラヴァン展でまず目についたのは、エントランスホールの石の床のうえを斜めに直線で展示室入り口にむかってならんでいる風呂場の簀の子のような「作品」だった。もう一つの、企画展示室の3から4のあいだの休憩ロビーとそのガラス窓を隔てた外庭につくられた「作品」とおなじで、この会場のこの場所にあわせてつくられ、その場かぎりだったからいまはもうあとかたもない。期間限定で消え去るということ、或いは自然から生まれた人工物の人工性をもとの自然にもういちどかえすこと。それは作品を記念碑とみなさずに、もっとかるくてフットワークのいい水や空気のようなものとかんがえてもいいとする思想のカラヴァン的なあらわれのひとつとみていいだろうか。みえているものだけが作品ではなくて、そこにくりこまれたみえないなにかもまた、まちがいなく作品を作品にしている必須の条件になっている。たとえば、このエントランスホールをよこぎる簀の子から、その直線的な意志のはてにふと浮かんでくるのが「道」ということばだったりしたとき、ぼくらがカラヴァンに一歩ちかづくのはたしかだろう。しかしそれはカラヴァンにちかづくことであると同時にとおざかることであるかもしれない。ある地点をこえると作者の名はもう消えていい。そうそう、それを作品の解体とでもいえば、この作品の解体は同時にアーティストという「名」の解体であるはずだからだ。自然から離脱する意志の象徴であるよりも、どうしたらうまく自然にむかって着地できるかをめざすことが藝術の方向となろうとしている。カラヴァンという名のむこう、凝固しているその名が消え、微粒子となってせかいに散華したあとのカラヴァンというかんがえがぼくにはおもしろい。身ぢかにそんな具体的な例があるのだ。美術館へ入る直前に池があって、なにげなく左に折れるとそれをぐるっと迂回する白いコンクリートの道にでくわす。ここをとおるたびに、カラヴァンから名をけした作品はこういう「風景」につながるのかな、といつもおもってしまう。

 

(東俊郎 学芸員)

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