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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.61-70) > 新井謹也「抜蝋文春夏秋冬大鉢」

館蔵品から

新井謹也「抜蝋文春夏秋冬大鉢」

 三十代の半ばを境に画家から陶芸家に転向した孚鮮新井謹也(1884~1966)についての紹介は、これまで必ずしも十分ではなかった。

 

 新井謹也は、現在の鳥羽市の生まれ。三重県立富田中学校(現・県立四日市高等学校)を卒業後に上洛して、浅井忠・牧野克次らに師事し、関西美術会展等に出品しながら洋画家として歩み始めた。

 

 また、フランス留学から帰国間もない新進美術史家田中喜作(1885~1945)を中心に結成された京都の青年作家たちの研究団体「黒猫会」や「仮面会」にも新井は参加して、作家の個性と自由を尊重した新しい芸術を創造しようという気風の只中に身を置くことになる。

 

 関西学院中学部勤務を経て、1920年(大正9)3月に新井は友人の画家国松桂渓と、中国・朝鮮半島へ陶磁器研究の旅に出た。6月に京都へ帰った新井は、孚鮮陶画房を開業、以後は陶器制作に専念することになった。

 

 新井が、洋画から陶芸に転向した確実な理由は定かでない。二十歳の頃に日露戦争に従軍画家として出征したために、画家としての基礎的な研究で他の画家たちに遅れを取ったと感じていたことが理由だと生前語っていたという遺族の証言もある。

 

 また、想像をたくましくすれば、陶芸を手がけながら早逝した弟新井昌夫(1889~1912)の存在が何らかの影を落としていたという推測も成り立つかもしれない。

 

 新井の中国・朝鮮半島への旅行は、その後数度にわたったが、陶芸家としての新井は中国及び朝鮮古陶磁研究をもとに、そこに自身の個性をどのように盛り込むかに腐心していたようだ。

 

 京都の陶芸家たちの研究団体「耀々会」「辛未会」への参加、あるいは高村豊周らとの「実在美術工芸協会」結成などに見られる新井の活動は、1920年代以降工芸界で盛んになった創造的な芸術としての工芸を求める気運を彼が強く抱いていたことを示している。≪抜蝋文春夏秋冬大鉢≫は、制作時期は明らかではないが、1920年代後半から30年代にかけての陶芸家新井謹也のそうした意欲を見て取ることができる作品の一つ。大らかな器形、淡青色の釉、漢字による装飾などに、伝統と革新双方に対する新井の姿勢を見ることができる。    

 

(毛利伊知郎・学芸員)

 

年報/新井謹也とその時代展

作家別記事一覧:新井謹也

新井謹也「抜蝋文春夏秋冬大鉢」

新井謹也「抜蝋文春夏秋冬大鉢」

昭和前期 高22.8cm

 

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