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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.61-70) > 前田寛治《赤い帽子の少女》

前田寛治 《赤い帽子の少女》

土田真紀

 滞欧期に描かれた≪風景≫、1928年の≪裸婦≫とともに三重県立美術館が所蔵する前田寛治の作品に着衣の女性像がある(fig.1)。収蔵当初から≪赤い帽子の少女≫と呼ばれてきた作品で、その名のとおり頭につばのある赤い帽子を被り、その表情は成人の女性というよりは少女と呼ぶにふさわしい幼さを残しているように感じられる。しかしながらこの女性像は最初からこう呼ばれていたのではない。1928年2月11日に開幕した一九三○年協会第3回展に出品された際の目録では≪赤衣の子≫、その展覧会評では≪赤衣の小供≫(『中央美術』1928年3月号)、あるいは≪赤衣の子供≫(『みづゑ』1928年3月号)となっている。前田が亡くなって直後の『アトリエ』1930年6月号の口絵では≪少女≫、1935年に銀座の三共画廊で開かれた回顧展では≪赤帽の子供≫とされ、1941年に刊行された今泉篤男著『前田寛治』(アトリエ社)で初めて≪赤い帽子の少女≫となる。さらに1960年に神奈川県立近代美術館で開催された「前田寛治展」に≪少女像≫として出品された後、当館に≪赤い帽子の少女≫として収蔵され、以後このタイトルが用いられている。こうした変遷自体に特別な意味はないであろうが、この女性は確かに成人ではなく少女であるということ、当初は帽子ではなく着衣の赤の方がタイトルとなっていた点を一応確認しておきたい。また≪赤い帽子の少女≫と言ったとき、原題よりやや詩的な響きが生じている点も留意しておいてよいであろう。

 

 さて、≪赤い帽子の少女≫は一見して未完の印象を与える作品である。一九三○年協会展に出品された際、『美術新論』誌上で高間惣七は「かなり自由になつた作品であるが処々なげやりの気になる」と評している。(1)確かに右腕の表現については明らかに半ばで投げ出したということが作品上に露呈されている。しかし、未完の印象はそうした描写の非合理性とは別の次元からも生じている。第9回帝展に出品された裸婦(東京国立近代美術館蔵)や当館蔵の裸婦(fig.2)など、1928年の他の作品とも共通する表現技法そのものが与える印象である。これ以前ならスケッチ的な小品にのみ見られた素早い筆触や大胆な賦彩が、これら大作の展覧会出品作にもはっきりと現れてきているのである。

 

 ところで高間は同時に「自由になつた」という言い方をしているが、果たして前田は何から「自由になつた」というのだろうか。同じ時、『中央美術』に掲載された田口省吾による展評も同じことに触れているようである。

 

  前田寛治氏は最近動きつヽある所が見受けられる。形象的にも感覚的にもあるがまヽに描出しやうとする寫實が君の前からの持論であつた。所が此等の作品を見ると既にそれには倦き足らず技法や色調にある装飾味に加へて単に内面的にばかりでなく畫面上にも純粋に絵畫的感覚を表現しやうとする試みが見られる。流石前田君だなと思ふ。大作「裸婦」は前の作風で此種のものでは昨秋の帝展の作が代表的のものであつた。「伏臥裸婦」、「赤衣少女」、「秋」等には最近の傾向が讀まれる。(2)

 

 ニュアンスにやや開きはあるものの、高間も田口も前田が従来の対象に即した「写実」の追求とは異なる方向に向おうとしている点を見て取っている点では大同小異といえよう。そしてこの点については現在でもほぼ同感の意を表することができるように思う。細部まで丁寧に写すという意味での「あるがまヽに描出しやうとする寫實」ではないにせよ、このあたりまで前田の絵画空間は現実の空間に即した遠近法的な描写を残しており、細部の省略や単純化は行われていても、個々のモティーフを見て取ることはできた。たとえば、「1927」の年記をもつ≪少女と子供≫(fig.3)は、顔の表情の省略、わざと下塗りを残した賦彩は似ているが、背景などまだまだ再現性を残している。しかし、≪赤い帽子の少女≫では、少女以外のモティーフを判別することはむずかしく、遠近法的な空間の表現はほとんどみられないに等しい。椅子が描かれていることはかろうじて認められるものの、もはや色遣いも空間描写も再現ということを離れ、対象から「かなり自由」になっている。少女の背景は、個々の具体的なモティーフの集合体ではなく、画面上で引っ込んだり飛び出したりという役割を担った色面の集合体である。モティーフとモティーフの前後関係はほとんど色彩同士の関係性によってのみ生じ、ときには筆の動きや装飾的な筆触が空間の前後を生み出す手助けをしている。自律的な役割を果たす色彩、すなわち「赤」そのものとして表された女性と周囲を取り巻く色彩とが絵画空間を成り立たせているのである。この点で、前田寛治の着衣の女性像という系譜の中でも、≪赤い帽子の少女≫は最も大胆な表現を試みた作品といえるであろう。田口が「畫面上にも純粋に絵畫的感覚を表現しやうとする試み」と述べているのもこうしたことを指していると思われる。この意味で、確かに作品のモティーフは腰掛ける女性であるが、造形上の主題はむしろ「赤」という色彩そのものであり、とりわけドレスの赤と帽子の赤、2種類の赤を使い分けるという点でも実験的な作品に思われる。

 

 腰掛ける女性像は、裸婦と同じくパリ留学以来継続されてきた主題であるが、留学中に描かれた作品は、黒あるいは褐色を主としたものが中心を占めている。前田には「黒の絵」という文章があり、「黒色で成功している画は水際だつて立派である」としてゴヤ、マネ、ドガ、クールベ、セザンヌらを挙げているが、(3)留学中に前田にとって重要な意味を持ち始めたこれらの画家の作品から、彼は西洋の絵画史における黒の重要性について深く意識するようになったにちがいない。留学以前と留学中の作品では黒の占める意味が全く異なっていることは一目瞭然であろう。とりわけ≪黒衣婦人像≫(東京国立近代美術館蔵)や≪ブルターニュの女≫(個人蔵)は、日本の近代画家が描いた最も美しい黒の女性像といっても過言ではない。前田の留学の見事な成果というべきである。それらにおける黒は無限に深く豊かで、見事に絵画空間の広がりと奥行きを体現している。

 

 この黒と並んで次第に重要な意味を帯び始めた色彩が赤である。≪赤い帽子の子≫と題された作品は、1921年に郷里倉吉で開催された最初の個展にも4点出品されているが、滞欧期には赤は帽子などの色彩としてアクセントとして用いられているだけでなく、赤い衣装の女性像が小品ながら何点か描かれている。しかしながら、滞欧期の作品における「赤」という点で強い印象を残すのは、黒い衣装に赤い大きな襟と帽子を付けた女性像(1925年、ひろしま美術館蔵、fig・4)とメーデーの様子を描いた作品(1924年)である。前者は、帽子の正面にかつて鎌とハンマーが描かれていたといい、(4)また後者においては労働者の上着と掲げる旗の赤が主調色である。鳥取で同級生であつた共産主義者福本和夫とパリで再会し、その強い影響から労働者や工場風景をも描いた前田は、帰国後の≪福本和夫氏像≫(1927年)でも部分的に赤を用いており、分量は少ないものの、強い印象を残す。これらの赤には造形上の色彩以上の意味が籠められている可能性も考えられるが、同じ頃から数多く描かれる女性像の衣服や帽子の赤もはたしてその延長上にあるのだろうか。その是非はここでは脇に措くが、前田の作品においてどんな場合でも画面上で赤が造形的に機能していることは確かであろう。

 

 帰国直後の第6回帝展に、前田寛治は赤いドレスを着た≪J・C嬢の像≫を出品し、特選となっている。そして帰国後も日本の女性をモデルに裸婦を含めた女性像の探求が続けられる。ここでも黒と赤は同等の重みをもって扱われているようである。その一連の女性像の最後近くに登場したのが≪赤い帽子の少女≫である。ここでは「赤」という色彩そのものが圧倒的な量感で見る者に迫り、一連の黒衣の女性像に劣らぬモニュメンタリティーを獲得している。色のもつあたたかみが、風船のようなふくらみを孕み、画面上で実際に占めるヴォリュームを超えて、3次元的に広がるかのように機能し始めているのである。前田にとって黒と並んで重要性を帯びてきた赤という色彩の追求は、≪赤い帽子の少女≫ばかりでなく、同じく1928年に制作された≪棟梁の家族≫や≪仰臥裸婦≫(神奈川県立近代美術館蔵)に至ってひとつの頂点を迎えているように思われる。

 

 本人も完成に向けて自信を深めていたという≪棟梁の家族≫などと異なり、(5)≪赤い帽子の少女≫は確かに造形として完結していないという印象を強く残す作品ではある。しかし未完ながらも実験そのものの意味を問う形で前田は一九三○年協会展に出品したのであろう。裸婦も含め、1929年以降、前田は本格的に人物像に取り組むことはなかった。もちろん病に倒れた前田の体力的な限界もあったにちがいないが、≪海≫の大作は残されており、ここで前田が人物像に一区切りをつけたとはいえるであろう。病床では油彩によるスケッチ風の子どもの小品が多数描かれている。初期の作品以来そうであるように、子どもはしばしば帽子を被っている。それらの小品には誰もが指摘する「詩人」としての前田の資質が存分に発揮されているが、この資質は≪赤い帽子の少女≫の厳しい造形的な実験の陰にも決して隠れることなく、魅力の源となっている。生前の前田寛治を知る今泉篤男が、その著書で次のように語り、この作品のタイトルを≪赤衣の子≫ではなく≪赤い帽子の少女≫としたのも故なきことではないように思われる。

 

 彼の描く少女のよくチヨコンと冠つてゐる赤い帽子の素朴な表情は、彼の畫面に於ける謂はゞ一種のお洒落なのである。(6) 

 

(つちだまき・学芸員)

 

作家別記事一覧:前田寛治

fig.1 赤い帽子の少女 1928年

fig.1 赤い帽子の少女 1928年

三重県立美術館蔵

 

 

註(1)『美術新論』、1928年3月号

 

fig.2 裸婦 1928年三重県立美術館蔵

fig.2 裸婦 1928年三重県立美術館蔵

 

(2)『中央美術』、1928年3月号、p.119

 

fig.3 少女と子供 1927年 鳥取県立博物館蔵

fig.3 少女と子供 1927年 鳥取県立博物館蔵

 

(3)『前田寛治畫論』、金星堂、1930年、p.92

 

fig.4 赤い帽子 1925年

fig.4 赤い帽子 1925年

ひろしま美術館蔵

 

 

(4)三谷巍「作品解説」『アサヒグラフ別冊日本編73 前田寛治』、朝日新聞社、1992年、p.89 

 

(5)今泉篤男『前田寛治』、アトリエ社、1941年、p.61

 

(6)同上 pp.23-24

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