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ヒューマニズムの系譜 日本の具象彫刻10人:1930s−1950s」の周辺

毛利 伊知郎

 8月に開催したこの展覧会は、第二次世界大戦をはさむ約30年間に、ロダンに始まるフランス近代彫刻の系譜に立ち、ヒューマニズムの精神を抱きながら、人間の内実を表現しようとした在野の彫刻家10名の作品を通じて、わが国の具象彫刻史の一面を紹介しようとするものであった。

 

 この展覧会は、一昨年日本で開催された「シャルル・デスピオ展」の交換事業として、フランスではほとんど開催されたことのない日本の近代彫刻を紹介する展覧会を組織したいとの当時のデスピオ―ヴレリック美術館長フイリップ・カマン氏らの意向に端を発している。

 

 カマン氏は、第二次世界大戦開戦までさほど間もない1937年に開催されたパリ万博関係の彫刻研究から、日本近代彫刻へと関心を広げていったようだ。

 

 つまり、この万博では、多くの彫刻家が参加して大規模なモニュメントが多数つくられたが、同時期の日本においてフランス彫刻との関わりの中で、どのような作品がつくられていたのかを比較検討してみたいというのが、カマン氏の目的のひとつであったようだ。

 

 わが国においても、個人作家の回顧展、明治以降の近代彫刻の概説的な展覧会を除くと、時代を限定したり、テーマを設定した彫刻関係の展覧会はほとんど開催されていないけれども、以上のような経緯で組織された本展覧会がわが国で開催される際には、フランスにおけるのとは異なる意味づけが必要であろう。

 

 日本での開催に当たっては、国内の観覧者を考慮した出品作品の部分的変更等が行われたが、より基本的なところでこの展覧会の意味や問題について確認しておく必要があると筆者は考えている。本稿は、その確認作業の一つでもある。

 

 最初に、1930年代以降の戦中期におけるわが国彫刻界の状況について概観しておこう。そこでは、以下のようにいくつか注目すべき在野系彫刻団体の活動を見出すことができる。

 

 その一つは、今回の展覧会が主対象とした国画会と、同会から分離独立した新制作派協会である。周知のように、国画会彫刻部はプールデルに直接師事した金子九平次が創設に深く関わり、また日本におけるロダン紹介の嚆矢であった高村光太郎も会員として参加していたために、同会には彫刻家を志す青年たちが多く作品を寄せていた。この国画会彫刻部は1939年(昭和14)に全員が脱退して、新制作況協会に合流することになる。

 

 国画会以外でロダンと関わりがある団体では、金子と同じくロダンに直接師事して、助手もつとめた藤川勇造が創設に関わった二科会彫刻部がある。

 

 二科会には、ザッキンやマイヨール、アルキペンコら外国人作家の出品もあったが、藤川以外の日本人作家では笠置季男、太田三郎、荻島安二、早川巍一郎、太田三郎らの他、掘内正和、淀井敏夫らも30年代から同展に出品していた。

 

 国画会と二科会彫刻部は、団体設立の経緯やその後の展開は異なるけれども、ロダン以降のフランス近代彫刻をその根幹にしているという点で両者は共通している。

 

 また、大正期に中原悌二郎や戸張孤雁らのように、ロダンの影響が強く認められる作品を発表した作家が輩出した再興日本美術院は、平櫛田中、橋本 平八、桜井祐一ら木彫家の活躍がある一方で、石井鶴三、喜多武四郎、保田龍門、武井直也らが塑造作品を出品していた。

 

 ところで、1935年(昭和10)、当時の文部大臣松田源治によって行われた帝国美術院改組は、美術界に大きな混乱を巻き起こした。松田文相の急死もあって、1937年(昭和12)には帝国芸術院が創設され、官展は文部省主催に変更された。

 

 官設展をめぐる混乱は彫刻の分野にも及び、帝展に出品していた作家たちが多くのグループを結成することになる。その中では斎藤素巌、日名子実三らによって1926年(大正15)に結成された構造社、同社から1935年(昭和10)に分裂した新構造社、澤田政廣や日本美術院を脱退した内藤伸らが1931年(昭和6)に結成した日本木彫会などを主要団体としてあげることができよう。

 

 また、いわゆる松田改組によって混乱した帝展には、建畠大夢、北村西望、朝倉文夫、山崎朝雲らベテラン作家が毎年出品を続け、また新しい世代の作家も登場してきたが、全体としては必ずしも大きな成果をあげるには至らなかった。

 

 官展の彫刻は、対象を忠実に写す写実表現を一つの特徴としていた。1930年代から40年代にかけての作品を見ると、当時の日本の社会状況を反映した文学的あるいは歴史的なテーマと写実由彫刻表現との調和は、官展系作家たちにとって大きな課題であったと思われるが、成功している例はほとんど見られない。

 

 しかし、官展・在野を問わず、1930年代から40年代にかけて制作された作品は、戦中戦後の混乱の中で多くが失われた。現存する作品は多くない。こうした既に失われた作品は、決して良質とはいえない写真資料でしのぶことができるにすぎないが、そうした作品を視野に入れれば、1940年代を中心として30年代から50年代に至る30年間の、現存作品だけからでは見えてこない当時の日本彫刻の状況、作家たちの絶え間ない試行錯誤の様子が浮かんでくる。

 

 1941年(昭和16)の太平洋戦争開戦以降急激に逼塞していく社会の中で、在野の美術団体は活動停止に追い込まれ、官展も1943年(昭和18)を持って中断されることになる。

 

 戦後社会の復興とともに、在野の美術団体も再出発し、戦前の官設展覧会は、文部省主催の日展が一度だけ開催され、その後は世俗的な権威は保持しながらも、新しい開催組織へと移行していったのは周知ののことである。

 

 戦後日本の具象彫刻界を概観すると、日展の彫刻に代表される戦前以来の写実的傾向を留めた作品の潮流がある一方、第二次世界大戦後のフランス、イタリア、イギリス彫刻などの影響を受けながら試みられた、新しい具象表現の作品がある。

 

 以上のような1930年代以降のわが国彫刻界の状況を踏まえた上で、本展覧会の「ヒューマニズムの系譜」というテーマ性と作家選定の問題に立ち戻ってみよう。

 

 作家の姿勢としてのヒューマニズム、人間性重視の傾向は、特に戦後日本の美術界における最も大きな特徴の一つといっても大きな誤りはないだろう。その背景に、作家たちの苛酷で非人間的な戦争体験に基づく造形思想の深化、あるいは一部の作家たちが示した戦争協力の姿勢に対する強い反省があったこともいうまでもない。1931年(昭和6)の満洲事変に始まる十五年間の戦中期と1945年(昭和20)以降の具象彫刻の在り方を一つの視野の中に入れ、その間の彫刻の展開を跡づけようとするとき、「ヒューマニズム」は有効なキーワードの一つとなりうるだろう。

 

 ところで、この展覧会がフランスで開催された際の名称は、“le Japon Sculpture moderne 1935−55”というもので、「ヒューマニズム」に類する言葉は使われていない。実際には「ヒューマニズム」というテーマが念頭にはあったのだが、冒頭にも記したようにフランス側のキューレターであったフィリップ・カマン氏の関心の多くが、「東洋と西洋との密接な関連性」に向けられていたこと、これまで日本の近代彫刻がほとんど紹介されたことがないフランスでの展覧会ということから、ロダン以降のフランス近代彫刻から強い刺激を受け、造形的にも比較的近いスタイルの作品を遺した国画会系の作家たちに限定したのは、現実的な選択であった。

 

 もっとも、日本での展覧会図録でカマン氏自身が記しているように、こうした展覧会の構成に対して、フランスでも賛否両論があったという。批判の論拠は、これらの作家たちだけで当時の日本の具象彫刻家を語れるわけではないから、異なる傾向の作品も加えるべきであるというものだったようだ。

 

 出品作家の選択ということでは、唯一日本美術院に所属して彫刻家として出発した桜井佑一の木彫作品が、展示会場でさほど違和感を与えなかったことは、また別の作家選定や展覧会構成が可能であったことを暗示しているように思われた。

 

 戦中・戦後という混迷期における日本彫刻の展開をどのように位置づけていくか、これは非常に難しい課題である。しかし、本展の「ヒューマニズム」という切り口を一つのステップとして、また新たな視点やテーマを模索しながら日本近代美術史を構築していくことが今後残された大きな課題であるといえる。

 

(もうりいちろう・学芸員)

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