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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.61-70) > 「三重の子どもたち展」感想

「三重の子どもたち展」感想

大嶋貴明

 1998年の3月24、25日に三重県立美術館を会場に、美術館の教育普及担当者による教育普及ワーキンググループの会合をおこないました。その際、会合プログラムの一つとして「三重の子どもたち展」を見学し、三重県立美術館の森本さんのレポートを聞くことができました。それはわずかな時間でしたので、展示されていた個別の作品をとりあげて、今あれこれすることはとてもできません。しかし、私を含めて20人程の全国の美術館の教育普及担当者にとって、「三重の子どもたち展」は、地域社会と美術館の関係、美術館教育の課題、美術教育の現状と問題点などさまざまな角度を持った象徴的な表れでした。この小文では、「三重の子どもたち展」をとおして美術教育や教育的展示について、私の個人的な感想を記します。

 

  一般的にどのような展示においても、、少なくとも3つのレベルの見方ができるように思います。一つは個別の作品を見るという視角。二つ目は、複数の作品が並ぶことで発生している個別の作品だけには還元できない意味を見る視角。そして、展示を構成する企画者の意図をみる視角。展覧会を見慣れる、まあ、すれっからしといってもいいのかもしれませんが、見慣れていることで、この3つのレベルの違いは意識できるように思います。「三重の子どもたち展」のような場合、大きくは個別の作品を見るというよりは、明らかに後二者の視角でみています。たとえば、第1部と第2部の違いや、集合した作品群から発生するエネルギー、あるいは、それぞれの展示意図など。そして、「三重の子どもたち展」が教育的な展覧会であるがゆえに、それぞれの課題が持つ教育的意図も、一般的展示にはないものですが、無視するわけにはいかないように思います。この、展示をどう見るかという点で、「三重の子どもたち展」を見にくる多くの子どもたちや保護者の方々と、教育関係者や美術関係者とに違いはないのでしょうか。

 

 さて、素朴な感想から始めます。メンバーの幾人かも異口同音にいっていたのですが、「(自分の地域の)◯◯の子ども達より三重の子ども達のほうが元気だ。」というものがあります。私自身も、多分、中学生の課題だと記憶しているのですが、作者の内面のイメージ、それも善悪や正邪や美醜をこえて、リアルに造られているいくつかのオブジェに感心しました。しかし、「元気だ」という感想はどれだけ客観性を持ちえるでしょうか。展示があのような密度であれば、現象的にはエネルギーに満ちているように見える、あるいは密度の違いだけではない何か質的差があるのか。どうでしょう。質の差がつかめないとしたら、それは、過去によく言われた、子どもの絵や作品に元気さ、大胆さ、のびのびさ、を求める見方の展示ヴァージョンをいまだにしているだけではないでしょうか。

 

 素朴な感想でもう一つあったのは、「数年前のこの展覧会より少し整理されて、窮屈感がへった。」というものでした。窮屈感がへった理由については、森本さんから説明を受けました。そして、この感想は「でも、第1部と第2部でずいぶん違うね。」というものにつながることが多かったように思います。

 

 この感想は私たちが美術館の教育普及担当者であったために、三重県美にへつらうために、そして、そのへつらいを通じて自分たちの立場を守るためにでてきたものでしょうか。私はそれだけではないように思います。なぜなら、第1部と第2部の展示の違いは、作品数の違いだけではなく、何を展示するかからくる展示テーマや展示の質の違いにあるからです。付け加えておくと、この質の違いは、一方が(日本の)美術館に多い、壁面に作品を適度の間隔をとって一段だけで展示する方法と似ているから、ではありません。

 

 また、個々の作品の集合したスケールの違いでもありません。個人的には、教育的配慮の必要な子どもたちの作品の展示の場合、指導者や先生が安易に集合作品的な展示をしてしまうのは問題があると考えています。

 

 第1部と第2部の展示の質の違いは、作品だけの展示と、教育活動や美術活動の過程の記録や制作要件をも含めてヴィジュアルな展示にしていることの差にあると思います。もちろん、美術館がつくった展示が全て成功しているがどうか、また、教育目的にあっているかどうかは別ですし、慎重かつ長時間にわたる観察が必要です。しかし、「三重の子どもたち展」の第1部と第2部の違いは、美術教育の違いとして、美術館は「制作講座」ではなく「ワークショップ」をおこない、その活動の指導者は「先生」ではなく「ファシリテーター」と「アーティスト」の二人で、しかも機能分化している、あたりからありそうです。

 

 当然のことですが、展示はさまざまな問題が象徴的に表れます。多分、「三重の子どもたち展」のような形式の場合、限られた時間と条件の厳しさ、年間の教育計画のなかでの位置、などの制約のなかで相当の展示計画と労力が 必要であり、投入されている先生方の力を認めることはできます。しかし、フランクにいうなら、先生方が展示したパートはご都合主義の展示に見えます。他の発想、方法は本当にないでしょうか。展示の質の違いを美術教育の考え方の違いとして、綿密に検討できたでしょうか。

 

 まず、展覧会の目的から考えてみたいと思います。この展示は何のために 誰にみてもらうのでしょうか。作者=子ども個人なのか子どもたちなのか。あるいは、保護者の方々、あるいは、教育関係者、どうでしょう。目的は、個人の表現力や感性を強化するため。見る、あるいは鑑賞するため。見る、あるいは鑑賞の練習のため。創ったものは見せたいという素朴な自己実現のため。あるいは、異質さや多様さを体験するため。あるいは、三重の地域差を越えて同質さを確認するため。あるいは、美術という個人の嗜好を越えた大切な文化の制度に参加していくワンステップとして。美術館という社会的な制度を利用するため。美術教育の成果をみせるため。美術教育を検証するため。

 

 そして、目的と手段が一貫したとして、それは、子どもたち一人一人のためになっているのでしょうか。

 

 現在の展示のあり方は、団体展のような展示のあり方、発想にしばられているように思います。つまり、互いに独立した小宇宙としての作品をできるだけたくさん並べるという展示です。ファインアートという概念の形成過程において、絵画や団体展的展示の果たした役割があることは事実です。しかし、それは、それまでの、あるいは同時期の作品のあり方に関係して有効に機能したわけですし、また、個人の近代的自我の形成にとっても、ファインアートは無視できない機能をもっていたからこそ、そのような制度が成立し、その制度上で自己実現が可能だったように思われます。大雑把な物言いですが、現在は、美術のあり方も自我の形成も、特に学校教育では、再検討が必要でしょう。

 

 確かに、美術も美術教育も展示も一つの目的には収斂できないものかもしれません。しかし、今の展示だと、展示された作者やその縁者が自分の作品を探して、記念撮影して終わりということになりかねない。そのレベルにあるかぎりでは、大人になって少なくとも美術館にあるような多様な美術を楽しむ事にはつながらないように思います。それはともかく、展示がさまざまな視角を構成しやすいようになっている、あるいは、子どもたちや保護者の方々が展覧会を見にくるまでに、展示を見る状態に教育的に準備されているでしょうか。

 

 美術教育を考えるとき、すでに素朴な、感性の涵養とか、表現力の練習とだけいうわけにはいかなくなっているように思います。むしろ、美術のカリキュラムでとりあげられる教材やメディアによって、美術に対する欲望が削がれたり、個人の存在の広がりや美術のあり方が制限されたりすることを心配しなければなりません。そのことはたとえば、高校や大学のクラブ活動の美術が、社会的な関連性の弱い、あるいは、コンテンポラリーな美術との関連性がうすいなどの現象に見やすいのですが、そのことは30年前とは決定的に違ってきています。美術教育の場でいえば、モダニズムの美術教育や「創美」や「新しい絵の会」が提示したものと現在の美術のあり方や感性の広がりとの関係がそれを示しているでしょう。

 

 現在の美術教育には、認識や観察や構想力や想像力や独創性について、確かに言語的ではないけれど、理性的な段階を組み立てることが必要ではないでしょうか。表現したり鑑賞したりする前にまず見る練習とか、あるいは、感性というのは本当に多様でいいと納得できる課題、そしてその前には、感じていいという安心感を持つための課題。

 

 例えば、自我の形成を考えた時、絵画は大変優れたメディアであるといえます。絵画はまず白い面の上に自分の好きなイメージを導入するわけですが、完成するまでに一筆一筆毎にああでもないこうでもないという経過そのものとしてあります。この弁証法的過程とでもいえそうなものが、近代絵画の多様性を生み出し、また、自我の形成過程での自己の客体視にもつながっていますし、過程つまり行為におけるある種の葛藤や選択の重要性を生み出しました。一方、「造形遊び」では、主体が表現しようとするとき持ってしまう自己の同一律と排中律の働きとは違う体験的な広がりを持っています。これは、自我を表現することでおいつめられることではありません。そのため、自我のあり方の違いとして、グローバルな情報空間や流通するトレンドの中での、選択としての自己につながっていく大事な部分です。だから、かならずしも完成作品の上手下手や器用不器用を問わずに美術を楽しむだけではないはずのものです。

 

 美術教育では、素材探しや発想の立ち上げから、制作の過程や技術、そしてつくられた作品による関係づけ、つまり、利用であったり、比較や発表の場の設定などの、美術行為の全構造が必要であり、むしろ、課題や教材の差は意味が弱くなっているのではないでしょうか。どのようなメディアかよりも、読みとりの探さをどう形づくるか。それを美術行為の全過程に広げていく。そして、全構造に渡って、「鑑賞」ではなく「見る」ことからはじまる認識が主体を支えています。展示もその一部です。

 

 作品完成のみという目的をとりあえずはずして、自我と課題の関係、および、美術の全構造にふれるための方法の一つがワークショップです。そのなかで、素材や発想の供給、技術の提示、上また、理くつを越えたカウンターアイディアの提示という美術特有の役割をアーティストがにない、参加者の感情の動きとプログラムの進行の関係や、参加者個々の自我の肯定をファシリテーターが担うことになる。しかし、それは一つの方法ですし、学校教育ではもっと体系的で生涯にわたる発達の過程を考慮して、かつ、複数の人間が共通してやるべきものを考えねばならないのでしょう。

 

 展示や展覧会に話をもどします。

 

 単純に展示を見やすくするとすれば、作品点数をへらすことですが、その方法はないのでしょうか。その為の展示の方法を考えると、とりあえず考えられるのはテーマごとの展示です。しかし、テーマ展示が成立するためには、テーマの違いが認知できなければなりません。そのためには、ゆったりしたカリキュラムの進行のなかで、各ステップ毎に十分に「見る」ことをしていなければなりません。また、それが、展覧会のレベルで成立するためには、「見る」ことのおもしろさを知り、多様に見ることが可能となっていなければならないですから、それなりの配慮と練習が必要です。

 

 次に、子どもたちの作品を美術としてあつかうとしたらどうでしょう。手段としての美術の結果としてではなく、美術そのものとしての展示。しかし、決定的な問題は、普通、子どもたちの作品は課題の結果として生み出されていることです。とすれば、展示は、課題に対して課題性をその作品がどう乗り越えたかを明確に展示できるかどうかになります。それには、たとえばある個人の複数の作品を並列展示し、それを組織化することで全体の展示にしていくことなどの方法がとれるのではないでしょうか。

 

 一方では、教育資料展示に徹するという考え方もあります。カリキュラムや教育目的と課題やその結果との関係を十分にヴィジュアライズする、ことでしょうか。課題の種類を減らして対比の明解な展示とするのも一つの方法かもしれません。

 

 以上のいくつかの方法は、その他に地域割りや年度毎の展示づくりを含め、ある意味で展示できる作品数や出品される個人を減らす可能性があります。

 

 しかし、これは程度問題でしかない。事実上すべての個人の全ての作品を展示できることはありえない。それは、平等性の問題ではなく公正さや公共性の問題ではないでしょうか。または、地域差を越えて多くの作品にふれるということであれば、現在は別の手段をとることができます。そしてこのことは、自分の作品が展示されているかどうかとは違う価値を展覧会にみつけられるかということであり、また、展覧会のサブシステムとして見るあるいは見にくるシステムをどうつくるかということです。

 

 最後に、展覧会の楽しさは数やエネルギーだ、という考え方を検討してみましょう。この楽しさは理屈ではないですし、また、うまくインスタレーションすることでより強くなるものです。しかしこれは、このような展覧会がありえるとしても、全県レベルでやる必要があるかどうか、どうでしょう。

 

 確かに、教育を取り巻く厳しい状況と展覧会の条件を考えると、いい方法はないかもしれない。しかし、少なくとも美術教育は、展覧会映えする作品や、迫力ある展示ですむものでもない。繰り返しますが、一つの方法は、ある作品に関係した要件や過程の記録を同時に展示することです。というより、美術教育自体がすでに作品制作だけを目的にしていないのですから、展示だけがそこにとどまれるわけはないのではないでしょうか。決定的な方法がないとして、今できるのは、教育関係者や大人や美術家が、一方の極として「見ることのワークショップ」と、他方の極限としての「展示のワークショップ」の二つを体験することで、美術認識を再考することではないでしょうか。狭義の作品制作とは違う次元での美術を、それも個人の嗜好を越えた美術行為を体験できるかどうか、そこからしてみることが必要ではないでしょうか。

 

 どうも「三重の子どもたち展」にしっくりついた話というよりは、少し広がりすぎな、収拾しにくいものになってしまいました。どうしても、展示よりは美術教育の方が大きな問題ですし、美術教育より、「教育」そのものの方がより大きい問題だからです。おそらく、美術教育は根本から構成しなおしていかないと大変なことになるのではないかというのが実感です。視点としては、狭義の制作だけではない美術の全構造からと、感性や独創性や想像力や、いわゆる美術教育の目的をより明解なステップに区切ってみる、という二つではないでしょうか。現場を持ちながらというのはかなり困難ですが、学校と他の美術教育の場が、あるいは美術が協力できることもあるかもしれません。私(達)の現場もまた展開していきたいと考えています。

 

(おおしまたかあき・宮城県美術館普及部技師〔教育普及担当〕)

 

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