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蕭白評価の振幅について

佐藤美貴

 1998年5月13日から6月14日の間、「江戸の鬼才 曾我蕭白展」と題した展覧会を開催した。当館では、過去に2度の蕭白展をおこなっているので、開館からほぼ5年ごとに3度の蕭白展を開催していることになる。(1)すでに蕭白作品を見慣れているためか、来館者が抵抗無く蕭白をうけいれているように感じられ、新鮮な驚きがあった。この驚きは、担当者であったわたしが〈蕭白=うけいれられがたい画家〉という決めつけを、無意識のうちにおこなっていたために生じたものに他ならない。

 

 蕭白展の共催館であった千葉市美術館が発行している美術館ニュース『C'n』に佐藤康宏氏が寄せておられた文章は、蕭白に対してこのような偏見が生じた理由を明快に解き明かしてくれた。蕭白についての文章を読む毎に、蕭白はうけいれられなかった画家であると無意識のうちにすりこまれていたのだと。「蕭白のいる美術史」と題されたその文章は、「私たちがだれかのことを忘れるのは、その人物について何も語られないからではなく、既に何度も聞いた気がする決まりきった語り口が繰り返され、そのイメージになじんでしまうためなのだ。蕭白を忘れてしまえば、日本絵画はひたすら明るく華やかな花園であるかのように思い込むこともできる。(略)」と「蕭白がいない美術史」が形成された過程を考察してゆく。佐藤氏によると、『國華』4号(明治23年、1890)において蕭白は、生前も現在も時流をはずれた画家だと規定されて以降、評価されずに一生を終えた不幸な画家であったとの評価が定着したとのことである。(2)そして、佐藤氏は、この記述の背後には、新時代の美術教育のための悪い見本として蕭白を引き合いにだすという意図があったと分析している。たしかに、『國華』4号は、芸術家は技術上の巧拙に加え、徳義を涵養することを忘れてはならないと述べている。

 

 しかし一方で、明治期につくられたと考えられる「蕭白作品」があることも指摘されている。(3)前2回の展覧会に比すると数は減ってきているが、今回の展覧会会期中も少なからず蕭白の落款をもつ作品のもちこみがあり、何点かの蕭白作品に出会う機会に恵まれた。そして、それらの作品の中には、蕭白と同時代とは考えがたい作品も含まれていた。いうまでもなく受容する者なくして贋作づくりはありえない。つまり江戸時代以後も蕭白作品の需要があったと考えられるのである。 以上のことを考えあわせると、一方で蕭白を好ましくない画家であるとして排除しようとする動き、もう一方で蕭白作品を求める動きがあったと考えられる。蕭白および蕭白作品についてのこの相反する反応を、当時の文献からもう少し詳しく探ることはできないだろうか。以下では、蕭白および蕭白作品にたいする評価について考えてゆくために、『國華』4号以降昭和30年代までの、蕭白に関する記述をみてゆきたい。

 

 まず、『國華』4号と同じ路線で、蕭白を積極的に排除しようとする代表的な記述として、高野涼堂「曾我蕭白に就て」(『日本美術』75、1905年)をあげることができる。「曾我蕭白は吾等の、最も排斥すべき画家の一人にして」という過激な書き出しではじまるこの文章は、同じ不遇の境遇にありながら、高潔な人格をもつ偉大な画家としてミレーを引き合いにだし、敬慕すべき画家ミレーの正反対に位置づけられる画家であるとして蕭白を攻撃する。絵は手で造るものではなく、心によって造るものであるという高野の理想的芸術家は、『國華』4号と同じである。さらに時代がくだった昭和38年(1963)刊『世界美術全集十』においては、蕭白を、長沢芦雪、伊藤若沖、写楽、白隠、葛飾北斎とともに「異端の画家たち」の項目におさめている。東京芸術大学所蔵≪柳下鬼女図≫、個人蔵≪寒山拾得図≫を図版に掲げ、《柳下鬼女由≫については、非凡な技量を示していると評価しながらも、けして蕭白を好意的には捉えていない。技巧のさえは評価されているものの、「美学の範疇から逸脱している」と指摘されるばかりか、「この不幸な画家のとぎすまされた神経による痙攣的な表現を通じて、われわれはこの時代の病める側面をひしひしと感じることができる」と記されるのである。蕭白の技術についてはその非凡さを認めながらも、病的な側面を強調するこの評価も、基本的に『國華』4号の延長線上に位置づけられるだろう。(4)

 

 しかし一方で、蕭白の数々の逸話を例示しながらも、画技は評価し、同情的立場をとるものもある。たとえば、古川修「若沖と蕭白」(『日本美術』167、1913年)(5)や松内梅松「若沖と蕭白」(『美術画報』546、1922)、同じく「曾我蕭白に就いて」(『大東芸術』7、1930年)、において、蕭白作品は「警抜な構図は健達無比の筆技と俟って著しく個性的であり、到底凡庸者輩の鯱鉾立ちしても及ぶところではなく」あるいは「蕭白の筆は変化自在で、周女、雪舟のやうな、蒼潤な力があるが、覇気滴々である(略)二人(蕭白と若沖)とも自然の力を非常に強く示し、又絵筆が現わし得る限りの偉力を示した」とのことばで評価されている。しかし、これらの文献が、蕭白作品の評価以上に、蕭白の逸話の記述に力を注いでいることは、逸話をもとにした蕭白の性格分析の分量が多いことからも明らかであり、結果的に蕭白は酒におぼれ、拗ねに拗ねぬいた意固地な画家とみなされている。このような解釈は、『國華』4号や『日本美術』75となんらかわるところはない。決定的に異なるのは、このように酒におぼれた意固地な画家のうけとめかたであろう。『國華』4号や『日本美術』75では、芸術家のあるべきすがたではなく、もっとも排除すべき画家と捉えられたが、『日本美術』167や『美術画報』546、『大東芸術』7においては、このような態度は純真さ、真正直さの表れであり、同情すべき画家と捉えられているのである。そして、明治36年(1903)に金港堂から出版された近世絵画の名著、藤岡作太郎『近世絵画史』中の蕭白にかんする記述も、異常の才と技をもって、世の中に受け入れられず、ひとり社会に背いた画家であると蕭白を憐れんでいる。蕭白が世に受け入れられなかったのは当然であるとしながらも、蕭白の墨技の巧みさや作品については高く評価している。

(1)曾我蕭白展」1987年 「その後の蕭白と周辺」1992年

 

(2)『國華』4号の蕭白についての解説は無記名。佐藤氏は、岡倉天心である可能性も指摘

 

(3)毛利伊知郎「蕭白画の真贋」(『ひるういんど21』1987)
山口泰弘「蕭白の作品と俳謔」(『その後の蕭白と周辺』1992)には、展覧会準備中あるいは会期中に持ち込まれるさまざまな「蕭白作品」について触れられている。

 

(4)4号以降の『國華』にみられる蕭白評価も、当然のことながら基本的に好意的にはとりあげていない。

 

(5)上野寛「画傑蕭白と若沖」(『芸術日本』60、1941年)は、古川修「若沖と蕭白」と同文章。

 さらに、積極的に蕭白を評価する記述もある。『國華』4号の翌年、明治24年(1891)刊行の『絵画叢書』48の記事では、蕭白は「性勇悍にして心高尚なり亦性に応じて一家の風龍あり」と評価している。蕭白が、その内面を高尚ということばで評価される例はめずらしい。この記事を寄せているのが、姫路の塩澤岩蔵という人物であり、蕭白が播州地方を長期遊歴したという事実を考慮するならば、心高尚にして、という評価が播州における蕭白評価の一端とも考えることができ興味深い。また、春斎生「虹げいの屏風」(『絵画叢書』55、1891年)においても、蕭白の引いた墨線が五色七色に光輝き、得も言われぬほど美しい虹の屏風ができあがったという逸話を掲げ、蕭白の奇才を述べている。同じ逸話でも、蕭白を語る際に多くもちいられる類の、蕭白の奇行を強調するものではなく、蕭白の画技を賞賛するための逸話であるという点は特筆しておきたい。

 

 『國華』4号以降、積極的に蕭白を評価した人物のひとりに洋画家中村不折をあげることができる。明治39年(1906)『ホトトギス』をはじめ『日本美術』87(明治39、1906)、『書画骨董雑誌』119、242(1918、1928)に掲載された中村不折の蕭白にかんする文章は、蕭白にたいして非常に好意的であり、再評価をうながすものとなっている。蕭白を語る際にかならずもちいられる逸話は引用しているのだが、それらは否定材料とはならず、むしろ、「金銭などは比較的度外視していたに違いない」あるいは「自己の趣味から描いたのであって、更に俗世間との交渉の如きは顧みなかつた」とプラスの評価材料に転じている。『國華』4号や『日本美術』75においてはまさに批判の対象であった、蕭白の諸々の逸話が、俗世間と一線を画したむしろ芸術家の本来あるべきすがたとして捉えられている点は留意しておくべきであろう。そして「それにしても知己を百年の後に待つといふような言葉があるが、彼没して以来既に百余年、応挙、呉春、景文等の名声が隆々たるに引き換へ、彼の技はほんの僅少の識者以外、依然として認められず、第二第三流の画家扱いを受けて居ることは、洵に遺憾至極のことと言わねばならない。」と、同時代の他の画家に比して蕭白の評価が低いことを嘆き、再評価を促している。不折が近代洋画を代表する画家であるだけでなく、『小日本』をはじめとする新開類、『ほととぎす』あるいは『吾輩は猫である』などの挿絵を手がけ、さらには書の研究をおこない書道博物館を建設した人物であることを考えると、不折の蕭白評価は、同時代の文化人に少なからぬ影響を与えたであろうことが推測できるのである。同様に、劇作家高安月郊「蕭白と応挙」(『京都美術』9、1907)中でも、蕭白には天才の一閃があると好意的に評価している。洋画家の不折、劇作家の高安がともに蕭白を評価していることは興味深く、蕭白と同じ「芸術家」の側にいる人物の評価が高かったのではないかとも思われるが、他の筆者の立場が明らかでない現段階では推測の域をでない。

 

 以上のように、『C'n』の指摘どおり『國華』4号にみられる孤高の画家というイメージはそのままに継承されていることがわかった。そして多くの場合、蕭白の画技そのものについては評価していることもわかる。実力はあるが世間に受け入れられなかったという位置づけは共通していても、逸話にみる蕭白のイメージを否定的に捉えようとしていた『國華』4号の思惑とは裏腹に、蕭白の逸話を同情的あるいは肯定的にとらえるものもあらわれ、さらにそのことが逆に評価材料になるという現象までおこっていることがわかる。そして、これらの評価の変化が必ずしも時の流れによってのみおこっているのではないことも明らかである。原稿を寄せている筆者の立場、あるいは美術雑誌の読者層などを探れば、蕭白評価についての何らかの傾向が得られる可能性があるかもしれないが、この点については稿を改めて考えてみたい。

 

 昭和42(1967)年には、辻惟雄氏による「曾我蕭白の墓と興聖寺の蕭白一族の墓および過去帳の記載について」(『國華』905)が発表され、それ以降多くの研究者が、作品そのものを評価するようになっている。しかし、『日経アート』8号(日経BP社、1998)の連載「赤瀬川原平・山下裕二の日本美術応援団」でも指摘されている通り、蕭白について語る際に《群仙人図屏風》など特定の図版が掲げられ、蕭白のイメージが固定化されていることも否めない。たしかに、今回の展覧会に際しても、蕭白の異端的な側面が強調されなかったとは言い難く、現在出版されている多くの美術全集、美術書においても特定の作品が掲載され続けている。明治以来引きずってきた異端の画家というイメージから、まだ完全には脱しきれていない現状、そして山下氏が上記の対談で述べている「美術館というところは、実はそういうところに敏感にならないといけない」という言葉を今回の反省点とし、今後蕭白作品に接してゆきたい。 

 

(さとうみき・学芸員)

 

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