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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.61-70) > 柳宗悦の「李朝」

柳宗悦の「李朝」

土田真紀

 「柳宗悦展」を準備する間に、幾つかの場所で李朝の陶磁器をまとまって見る機会を得た。韓国国立中央博物館、日本民藝館、大阪市立東洋陶磁美術館、ソウルの湖厳美術館等である。いずれの場合も、粉青沙器(三島)から白磁染付まで、李朝陶磁の主な種類を網羅した展示であった。それにもかかわらず、それぞれの展示から受け取った印象は少しずつ異なっており、極端な言い方をすれば、李朝のやきものについて各々異なる「像」を提示しているようにさえ思われた。このうち東洋陶磁美術館は、周知のとおり、国内で常設で李朝陶磁の歴史をたどることのできる、きわめて質の高いコレクションであり、多くの日本人はその展示を通じて李朝陶磁のイメージを形成しているといっても過言ではないだろう。その母体となったのは安宅コレクションであるが、「かつて林屋晴三氏が指摘されたように、安宅コレクションの朝鮮陶磁は、明治・大正年間以来、日本に請来された茶陶以外の作品をほぼ集大成したものである」(開館記念展「東洋陶磁の展開」図録所収 伊藤郁太郎「収集の系譜―館蔵品をめぐって―」)という。東洋陶磁美術館のコレクションは、日本のコレクターたちが李朝陶磁に何を見てきたかのエッセンスを示しているといえる。

 

 一例を挙げれば、「秋草手」と呼ばれる、呉須で簡素な草花の絵を措いた白磁染付(青花)の一群である(fig.1)。東洋陶磁美術館では1988年に「李朝の秋草」という展覧会が開催されているが、その図録によれば、現在もなお李朝陶磁を愛好する日本人の間で高い人気を誇っているこの種のものに対する「格別の嗜好が現われた」のは「昭和の初年代」、「少なくとも昭和7年、東京・晩翠軒における売立会において、この種の壺が異例の高値で売却されたことが契機になっているようである」。初出は不明ながら、「秋草手」という呼称はいうまでもなく日本生まれであり、肥塚良三氏が同図録中の論文「李朝秋草について」でその実体や受容の過程について詳しく述べている。

 

 明治期にすでに日本人のコレクターによる蒐集が開始されていた高麗青磁に対し、当時、高麗の作と見なされていた三島手を除くと、日本人による李朝の陶磁器の受容が本格的に始まったのは、浅川伯教、巧兄弟や柳宗悦らからであるといわれる。浅川伯教が京城に住み、陶磁器に関心を持ち始めたのが1913(大正2)年、これに続いて浅川巧が渡鮮したのが1914(大正3)年。同じ年に浅川伯教が手土産に持参した李朝染付の壺を見た柳宗悦は、1916(大正5)年には初めて朝鮮を旅行し、自分でも壺を購入している。さらに柳らによって初めて朝鮮美術の展覧会が開催されたのが1921(大正10)年。この頃には『白樺』の同人ら柳の友人たちもすでに李朝の陶磁器や工藝品を所蔵していた。また、柳は学生時代に古道具屋で李朝の壺を購入したと回想しており、大正の初めにはすでにその種のものが国内で流通し始めていたのかもしれない。

 

 李朝の壺との出会いから、次第に朝鮮そのものへ関心を深めていった柳宗悦は、本格的に蒐集を始めるとともに、文章を通じて朝鮮の「民族藝術」の価値を繰り返し説き、1924(大正13)年には遂に念願の朝鮮民族美術館を開館させた。恐らくこの頃から、李朝の陶磁器は急速に市場的価値を有し始めたにちがいない。民藝運動の初期に加わっていた青山二郎が、晩翠軒の依頼で朝鮮に買い付けに出かけ、朝鮮の工藝品の大規模な展覧会を開催したのは1931(昭和6)年と翌年のことであるが、この前後には同様の展覧会が立て続けに開催されている。「秋草手」以外にも、種々の染付、鶏龍山窯の俵壺や瓶、無地の白磁の壺、鉄砂や辰砂の壺などは特に好まれ、それぞれ持ち味は異なるものの、今日に至るまで高い人気を誇っている。「秋草手」といういわゆる「王朝の美意識」に連なる言葉が李朝陶磁器の受容に際して登場したことからもわかるように、日本にある李朝陶磁器は、日本のコレクター、鑑賞家の眼というかなり強力なフィルターを通過してきた。それらが全体として喚起する印象が、韓国国立中央博物館でみるものと微妙に異なっている理由はそこにあろう。それがどういうフィルターなのか、興味深い問題であるが、ここでは「秋草手」の例に代表させておきたい。いずれにしても、李朝の陶磁器は中国や日本のものにはない自然な感じや自由さ、おおらかさが魅力であるとよくいわれるが、それらを見つめる日本の鑑賞家たちの眼の方はおおらかどころではない。彼らは李朝陶磁器の歪みに魅力を感じつつも、その歪みぐあいには相当にうるさいのである。この矛盾の中に日本における李朝陶磁は像を結んでいるように思われる。

 

 こうした日本における李朝陶磁の受容の流れの中で、あらためて柳宗悦の「眼」を位置づけるならば、柳が蒐集した李朝陶磁器には、当初から柳ならではの「眼」、すなわち韓国国立中央博物館はもちろん、東洋陶磁美術館の コレクションに集約された日本のコレクターたちの眼とも異なる評価=「美」の基準が確かに働いていたように思われるのである。ある意味で最も強烈にフィルター、言い換えれば選択の意志が働いているのが柳の場合といえるではなかろうか。別の言い方をすれば、柳の「李朝陶磁」はかなり独自の像を結んでいるということになろう。

 

 確かに李朝陶磁については中国陶磁とは異なる評価基準が必要で、また人によっても幅があるといわれる。しかしたとえば、染付辰砂蓮華文壺(fig.2)を李朝の壺の最高位に位置づける点では、恐らく多くの人が一致するはずである。ところが同じ染付辰砂でも、柳宗悦の初期の所蔵品で、後に朝鮮民族美術館コレクションとなり、現在は日本民藝館にある牡丹文の壺(fig.3)についてはどうか。これを高く評価する人は多くないはずである。しかし柳はこれを自著『朝鮮とその藝術』の挿絵として使っている。これらの挿絵を用意するにあたり、柳はわざわざ野島康三に写真撮影を依頼しているだけでなく、ほぼ同時に刊行された『白樺』の李朝陶磁特輯号の挿絵については「藝術的価値」を最優先したと述べているほどで、たまたま手元にあったからというような理由でこれを選んだのでないことは明らかである。

 

 日本民藝館のコレクションと東洋陶磁美術館のコレクションにはもちろん共通点も多い。前者にも「秋草手」があり、柳もまたその優しい風情を好んだことはまちがいない。浅川伯教から贈られた壺も「秋草手」にあたる。民藝館に無地の白磁の壺の優品が少なくないのも事実である。また、鶏龍山窯や鉄砂、辰砂への嗜好にも共通項がみられる。しかしそれらについても嗜好に微妙な差異が感じ取れるのに加え、柳が何を選ばなかったかという問いはさらに彼の「眼」を際だたせる。三島の暦(印花)手など明らかに柳があまり関心を示していないものもあるし、染付でも柳が選ぶものと選ばないものははっきりと分かれるように思われる。逆に染付蔦文壺(fig.4)、辰砂牡丹文壺(fig.3)などは、一般の評価はそれほど高くないであろうが、辰砂虎文壺、鉄砂龍文壺(fig.5)などと並んで民藝館のコレクションを特徴づけていると思われる。いずれも全体に意匠がシンプルで力強く、複雑な絵付けは見られない。逆に技巧的、装飾的なもの、中国の影響の強いものはコレクションに含まれていない。またきずや汚れのあるものを厭うどころか積極的に取り上げている。言葉でくくればこういうことになるが、何より肝心なのは、木工品なども含め、柳が取り上げたものには、朝鮮旅行で最初に自ら購入したという鉄砂竹文壺(fig.6)以来、驚くほど一貫した「眼」、断固とした美しさの基準が存在しているという確かな印象を与えられるという点である。問題は果たしてこれが一個人の「趣味」あるいは「美意識」の問題として片づけられるかどうかである。ここに言葉が介在してくる余地が生まれるが、思想家柳宗悦にとってはそれも必然の成りゆきだったのだろうか。いかに筋が通っていても「趣味」はそれだけでは思想たり得ないのだろうか。

 

 文章において柳の李朝観は明らかに変貌を遂げている。1914(大正3)年に浅川伯教から贈られた面取壺(fig.1)との出会いに際して、柳が注目したのはその「型状美Shape」であった。『白樺』第5巻第12号(1914年)の「我孫子から 通信一」で柳はこのことに触れている。ついで朝鮮の問題に深く関わるようになると、「朝鮮の友に贈る書」や「朝鮮の美術」で「悲哀の美」論を集中的に展開している。たとえば「彼の朝鮮行」(1920年『柳宗悦全集』第6巻所収)のなかには「静な沈みがちな白い釉薬や、その中から音もなく浮び出てくる青い草花」という彼自身の「悲哀の美」論からさらに一般的な「秋草手」愛好へとつながっていく捉え方がある。しかし同時に柳はこの中で「美しく柔かな高麗の器」に「強く大きな李朝の磁器」を対置している。そしてその直後の『白樺』第13巻第9号(1922年)の李朝陶磁器特輯では李朝陶磁器の特質として「単純な力強さ」を強調するとともに、こうした特質の背後に「自然」の関与を指摘し、それが末期の作が陥りがちな弊害から李朝陶磁器を救っているとする。蒐集品を通して現れる柳の李朝陶磁観は、実は「悲哀の美」論ではなく、やや遅れて登場するこうした見解に一致しているというべきであろう。またここには「民藝」へとつながっていく一つの契機が見出される。いずれにしても、ここでは言葉が「眼」に後から追いつくという現象が起こっている。そして言葉は柳の思想の一部を形成していくが、この場合、言葉を与えられて初めて「眼」は思想化される契機を得たのではなく、柳の「眼」は初めからひとつの思想となり得る様相を帯びていたとはいえないだろうか。

 

 柳は生涯を通じて「眼」と思想の往還ということを繰り返している。常にその両者の間を行き来し、運動し続けている。柳は確かに「思想家」であった。しかし彼にとって「眼」や「物」が単なる思想のための過程や道具でなかったことは明らかである。柳にとっては蒐集や美術館の設立が何より重要な活動であったし、日本の朝鮮政策に対する柳のプロテストは、柳が示した「李朝」像、従来注目されていなかった李朝の工芸を取り上げた彼の美の基準のなかに何より示されている。そしてこの基準は、これに続く日本における李朝陶磁受容の広がりのなかでも独自性を保ち続けた。それは李朝工藝の正確な姿ではないかもしれない。むしろ柳の眼はあまりにも強く働いているとさえいえるし、それゆえに柳の姿勢を批判することもできるだろう。しかしながら、柳の提示した李朝「像」は、たとえ偏りを見せているとしても、その固有の実の在処をいまも確かに指し示していると私には思われる。

 

 柳の思想家としての特質は、「眼」がひとつの思想となる可能性を示したことである。しかしいかなる思想もやがては批判の波に曝される運命にあるのに対し、不思議にも仰の「眼」は普遍性を持ち続けているということがここには示されているのではなかろうか。

 

(つちだまき・学芸員)

 

作家別記事一覧:柳宗悦

fig.1 染付秋草文壺

fig.1 染付秋草文壺

 

fig,2 染付辰砂蓮華文壺

fig,2 染付辰砂蓮華文壺

 

fig.3 染付辰砂牡丹文壺

fig.3 染付辰砂牡丹文壺

 

fig,4 染付蔦文壺

fig,4 染付蔦文壺

 

fig,5 鉄砂龍文壺

fig,5 鉄砂龍文壺

 

fig.6 鉄砂竹文壺

fig.6 鉄砂竹文壺

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