円空・木喰とペアで取り上げられることが多い、江戸時代を代表する二人の造仏聖のうち、鉈彫で知られる円空の仏像が高い評価を受けるようになったのは、第二次大戦後の昭和30年代半ば以降だったが、一方の木喰仏は既に大正13、4年(1924、25)頃に柳宗悦が精力的な調査研究と顕彰を行っていた。 その後、柳は民藝運動への傾斜を深めて木喰研究からは離れていったのだが、この両年に集中的に行われた木喰研究が、彼の思想展開過程あるいは明治以降の古美術研究において持つ意味は、様々な観点から検討されるべき問題であろう。 表紙の十一面観音像は、寛政12年(1800)、83歳の木喰が故郷甲斐国丸畑に建立した四国八八所の仏をおさめる四国堂の本尊として造立した像の1体。四国堂の88体の仏像は、大正8年(1919)に売却され四散したが、大正13年(1924)、柳が偶然目にした木喰仏というのはこの流出した四国堂仏であった。 四国堂仏は、如来や菩薩像では周囲に放射状の文様を持った円光と二重蓮華座を共通形式とし、肉付き豊かな顔貌に微笑を浮かべている。木喰仏が持つ、卑俗さを伴った健康的な力に満ちた表情は、江戸時代の他の造仏聖の作品とも共通するものだが、そうした表現はわが国の正統的な宗教美術の文脈からは生まれ得なかったものである。 柳が組織した展覧会で木喰仏を見た彫刻家石井鶴三は、立体としての造形に弱点があると指摘している。石井の指摘には説得力があるが、柳にとっては彫刻としての木喰仏が持つそうした弱点はさほど重大な要素ではなかった。むしろ、つくり手の生命感が伝わってくる人間的な生気に満ちた表情が柳の心をとらえたのである。 (毛利伊知郎・学芸課長) |