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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.51-60) > 『こども美術館Part-こわいって何だろう?』展での試みと反省

『こども美術館Part2-こわいって何だろう?』展での試みと反省

田中善明

1.はじめに

 ここ数年、子どもの鑑賞教育を目的とした展覧会を開催する美術館が増えてきた。その内容はワークシートを活用した展覧会をはじめ、学芸員らが子どもたちとのコミュニケーションをもちながら鑑賞する探検ツアー、ワークショップをとりまぜたもの、さらには子どもの手による所蔵品展示に至るまで、さまざまな試みが積極的に行われている。それに対し、美術教育の専門職員を持たない美術館にとっては、子どもの鑑賞教育の必要性を認めてはいるものの、教育プログラムの具体化に苦しむ館も多いはずである。日本の美術館の場合、美術教育専門職員を配置していても一人だけの場合がほとんどなので、こうした展覧会を継続するとなるとどうしても専門外の学芸員にその担当がまわってくる。普及や美術教育に関心のない学芸員はいないが、おそらくこうした展覧会を担当することはできることなら避けて通りたいと考える学芸員が何人かはいるだろう。

 

 すくなくとも、私はそのひとりであった。他分野の仕事がこれ以上増えると従来の業務がおろそかになってしまうに違いない、できることなら関わりたくないとつよく感じていた。しかし、逃避することもできなかった。学芸会議のとき、日頃不安に思っていることが脳裏をかすめたからである。それは、これまで積み上げてきた美術館のコレクションに、はたして次の世代が何らかの価値を見いだすのであろうか、もし必要としないならば、コレクション自体も私の携わっている保存の仕事も意味のないものになってしまうのではないかという不安である。自分自身10年ほど前まで、日本の近代の美術にはあまり魅力を感じていなかった。美術になんらかの関わりがある自分ですらこの程度であったことを考えると、近代という時代や美術との接点が我々よりも一層希薄となる次の世代の関心はより薄れてしまうことが容易に想像できる。子ども向けの展覧会はそうした危機をすこしでも免れることのできる手段のひとつであるにちがいないと常々感じていたのである。

 

 もうひとつ、この展覧会を引き受けた理由は、これまで国内でおこなわれてきた子ども対象の展覧会の多くが、現在の学校教科書のごとく質問責めの形式をとっていることに不満を感じていたからである。たしかに質問形式は鑑賞者をある方向へと導くためには非常に有効な手段ではある。しかし、度が過ぎたり、強引に答えを誘導すると拒否反応をおこす子どもも出てくるだろう。その一方で、各個人の感性に応じた自由な鑑賞法を推奨することもある意味では正しいのだろうが、そのことだけを全面に押し出し、「どのような感じ方でも結構」とのアドヴァイスで片づけるのはあまりにも無責任すぎる。できることなら、作品鑑賞の方法を、こちらが押しつけることなく、さまぎまな観点からバランスを保ちつつ示唆し、自分なりの方法を見つけていくための一助となるよう導いていく工夫が必要だと思う。

 

 以上のような気持ちを抱きつつ、展覧会の準備をはじめるにあたってもっとも悩んだのは、子どもたちに対し如何にアプローチしていけばよいのかということであった。子ども時代からすっかり遠ざかってしまった自分としては、そのときの感受性を現在持ち合わせていないし、そのときの感受性が蘇ったとしても今の子どもたちの感じ方とも違う。こうしたハンディキャップを乗り越えるには今の子どもたちとの接触をこころみながら展示計画を立てていくのが王道である気もするが、これはもっとも苦手であると自覚していたので別の角度から方針を立てることにした。

 

2.いくつかの工夫

 ギャラリー・ツアーは子どもたちに作品の楽しみ方、接し方を見つけてもらうための最良の方法であろう。こうした対話型の教育プログラムであれば、いま作品のどの部分について話をしているのかが一目瞭然であり、子どもの反応を見ながらプログラムの変更・修正も可能となる。とはいうものの、来館する子どもたちを展示室で学芸員が一日中待ちかまえるわけにはいかないし、日時を限定するギャラリー・ツアーであれば、その場に立ち会った子どもしか享受できない。そこで、対話方式をせめて疑似体験できる方法がないか検討してみたのだが、結局はセルフガイドと、ディスプレイを工夫することしか道がないように思えた。

 

 セルフガイドは如何に子どもたちを惹きつけるかがポイントである。すくなくとも夏休みのドリルのような苛酷な冊子にすることだけは避けたかった。そのためには、子どもたちと接近した立場でストーリーを展開すること、見開きの状態にしたとき視覚に訴えるもの、さらに飽きのこないものに仕立てる必要があった。

 

 まず、対象年齢は小学校3年生あたりを中心に考えた。なぜなら、小学校高学年は残念ながら塾などで多忙であり、個別に来館することが一番少ないからである。そして、「こわいって何だろう?」というテーマを設定してのち9歳あたりのキャラクター「きつね」をひねり出した。同年代のキャラクターの利用は、大人(年上)からの教育(押しつけ)になりにくいため、前述の「子どもと接近」した状況をつくるには非常に便利な方法である。さらに、このキャラクター「きつね」の発言には三重弁を使用することにした。三重弁はどちらかというと上下関係がよくわからない、言いかえると「馴れ馴れしい」ところに特徴があり、キャラクターに親しみを持たせるには格好の方言である(この発想自体は良かったのだが、三重県各地の人間に方言の確認をお願いしたところ、南北に長い県の宿命なのか言葉ひとつを取りあげても地域によって微妙な違いがあり、そのうえ自分の大阪弁が邪魔をしたこともあって、最後まで難航してしまった)。また、ガイドの仕様は「子どもに金をかけたくない」という勝手な信条と、厚手または硬質の紙を使用すると作品を傷つけてしまう心配があったことから、『少年ジャンプ』などと同じく表紙は薄手のコート紙、中身は色ザラ紙を使用した。視覚的効果としてはガイドブックを開いたとき、片面はイラストのみ、もう一方に文章を載せた(fig.1)。よくある手段であるが、紙面をすっきりと見せるためには有効であろう。文字はキャラクターによる質問や反応と、簡単な作家解説を掲載した。

 

 一方、ディスプレイに使用した演示具はすべて手作りにしてみた。材料は、木材、水性塗料、針金、縄、紙粘土、小石、怪獣制作などに使うラテックス、発泡ウレタン、古い解説パネルなどで、すべて身近にある入手可能な素材を使用した。手作りにしてみたのは、くだけた雰囲気を演出したかったためで、身近な素材を使用したのは子どもがものをつくってみるときの参考になるかもしれないと期待したからである。しかし、これら演示具はあくまでも脇役なので展示室では後退した位置に展示するよう努めた。

 

 テーマ設定については、たまたま池田龍雄氏と話す機会があったときにひらめいた。このテーマは展示の組立も比較的容易で、しかもコレクションのなかで子どもに見せたい作品を捜してみると「こわい」ものが網にかかってくる場合が多かった。出品作品の総数は27点で、内訳は日本画3点、油彩7点、彫刻1点、素描5点、版画11点。少ない点数であるが、館内では別の企画展が同時開催されていたことも考慮し、おそらく子どもの集中力の限界はこの程度であろう、多少物足りないぐらいの点数のほうがじっくりと鑑賞するだろうという希望的な予測に基づいた。

 

3.反省と考察

 いざ展覧会を開いてみると、予期できなかった多くの問題点が浮かびあがった。そのなかのいくつかをここで列挙してみる。

 
  • 約6割の子どもはセルフガイドを読まずに作品を鑑賞していた。
  • 演示具の耐久性が不十分であった。7千人の鑑賞者が演示具に触れたこともあり、一部破損してしまった。
  • 「こわい」という感情は、予測できない体験をこれから強要される場合や、身体の苦痛を予期させるものなど、さまざまな場面でおこるものであることを、作品を通じて理解してもらいたかったのだが、結果的には展示された作品そのものが「こわいもの」であるという先入観を持たせてしまった。
  • 会期中、展示室内は「子ども」という名の爆弾が飛び交い、非常に危険な状態になった。最初の部屋には池田龍雄の描いた「化物」を摸して人形を3体それぞれ違う素材で作り、暗箱の中に収め、手を入れて触感を素材を味わう試みをした。そのために、それにつづく展示品にも手に触れてよいかのような錯覚を植えつけてしまった。「原則として作品には触れてはならない」といった美術館での常識は子どもに通用しないことを改めて思い知らされた。
  • 作品を冒涜しているとのお叱りの声がいくつか大人からあった。そのようにならないよう努めたつもりでも、橋本平八の《成女身》(fig.2)を狭くて暗い空間のなかに背後から鑑賞するよう演出したことや、宇田荻郡の《夏の花園》(fig.3)の周囲を褪せた色の造花で埋めジオラマ的に演出したところなどは、人から言われたように少し行き過ぎであったかもしれない。
 

 所蔵品の中には一部触れてもよい作品もあるが、そうした作品ばかりを展示するのは展覧会を組み立てるうえで困難である。子どもたちが作品の世界に没頭できるような環境をつくるために、作品の前に結界をもうけたり、入口付近に忠告文を掲示することだけは避けたかったので、子どもたちが抵抗なく美術館のきまりを理解できるようその方法を今後検討したい。ディスプレイが行き過ぎであったことについては反省しているが、こうした子ども対象の展覧会以外でないかぎり、従来の展示方法を一旦崩してみる機会が少ないのも事実である。ただし、それを再び構成するときには作品に対する十分な配慮が必要であろう。

 

 意外な効果としては、ノートの設置があげられる。ワークシートの内容との関わりから、いくつかの作品の近くにノートを用意したのだが、設問に答えるというよりは感想を書くようになっていた。当初、子どもたちがはたしてノートに何かを書き記すのかどうか見当がつかなかったし、あまり期待もしていなかった。だが、ノートは感想や展示自体の反応で埋め尽くされ当事者としては貴重な資料となった。大人も含め、鑑賞者は他の人に自分の感想を読んでもらいたい欲求と、展覧会に参加したい(手を加えたい)欲求があるのではないかと推測している。

 

 今回の「子ども美術館」は一人だけで仕立てたわけではない。準備投階で、他の学芸員や作家、ボランティアの方々、清掃作業をしてくださるおばさん、数人の学校の先生などさまざまな人から意見をいただいた。この展覧会が鑑賞教育の目的をある程度達成できたとするならば、その秘訣はまさにここにあるにちがいない。

 

 最後に、今回の子ども美術館を通じて自分が有利な環境にいることをつくづく感じた。学芸員は作品にもっとも近い位置で仕事をし、鑑賞者のさまざまな反応が直接伝わる位置におり(これは監視員のほうが有利)、作家と話す機会が多く、研究だけではなく額の取り外しなど少なからず手仕事を日常的におこなっている。今後は普及・教育部門が専門化され、いっそう重要視されるにちがいないが、過渡期にある現在、自分のような専門外の学芸員であってもこの有利な環境を生かせば支援できることはまだまだあるような気がする。  

 

(たなかよしあき・保存担当学芸員)

 

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