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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.51-60) > デスピオと日本

デスピオと日本

毛利伊知郎

 ロダン、ブールデル、デスピオらに代表されるフランス近代彫刻の造形は、日本の彫刻家たちに強い影響を与えてきたが、今回のデスピオ展がわが国初の大規模な遺作展であることが示唆しているように、デスピオの名はわが国ではほとんど知られてこなかった。また、それを受けて、デスピオに深い関心を寄せてきた日本人彫刻家が少なからず存在するにもかかわらず、デスピオと日本の彫刻家との関係について触れられることもほとんどなかった。ここでは、デスピオが日本の具象彫刻に与えた影響の一端について述べることとしたい。

 

 1927年(昭和2)、ブールデルに師事した経験を持つ金子九平次が中心となって、1918年(大正7)創設の国画創作協会に彫刻部が新設された。翌1928年に国画創作協会の第一部(日本画)が解散すると、第二部(洋画、彫刻、工芸)は国画会と改称したが、1920年代末から1930年代にかけて、この国画会彫刻部はログンに源流を持つフランス近代彫刻を尊重する作家達が集まる場であり、1939年(昭和14)以降は新制作派協会彫刻部へと継承されていった。

 

 一方、1920年代には多くの芸術家たちをフランス留学に送り出した日本であったが、1930年代に入ると、昭和恐慌に代表される経済情勢の悪化、1931年(昭和6)に始まった日中戦争とそれに続く日本国内のファシズム社会の影響などを背景に、彫刻家たちの渡欧は激減した。1931年(昭和6)に渡仏した高田博厚、1936年(昭和11)9月に渡欧してデスピオに師事した菊池一雄は、むしろ例外的存在であったといえる。

 

 日本で藤川勇造に師事した後渡仏した菊池は、パリでデスピオとロベール・ヴレリックに師事、サロン・ドートンヌやサロン・ド・チュイレリーに出品し、1939年(昭和14)末に帰国している。

 

 滞欧期の菊池作品は、いかにもデスピオの教えを受けた彫刻家の作らしい、堅実な技術から生み出された抑制された造形と内実を示しているが、彼はデスピオについて次のようなコメントを残している。

 

 「デスピオは彼独自の形式を創造したのでもなければ、素人をあっといわせるようなあざやかな技巧を見せびらかせもしない。素朴で誠実であくまで自己に忠実であり、いささかの商売気もない・・・(中略)・・・彼の制作態度は文化というものの本来の姿に近いものであり、ギリシャの伝統をどのように解釈したかということではなくて、伝統そのものの中に生きていたというべきなのであろう」(『デスピオ展』図録1974年 読売新聞社主催)。

 

 こうした菊池の言説には、篤実な人柄のデスピオに直接触れた菊池がデスピオに寄せる敬愛の情が強く出ているが、菊池は第二次大戦前にデスピオの実作品に接した数少ない日本人であった。

 菊池がパリにいた頃、東京美術学校に学んでいた柳原義達は当時を回想して次のように記している。

 

 「今から40年以上前の美術学生当時の私にとって、「デスピオ」の名は、自然を探り、自然を愛し、それを音楽のように組立てた造形家として、最も新鮮な感動にみちていました」(『菊池一雄彫刻展』図録1976 年 神奈川県立近代美術館、京都市美術館)。

 現在でも日本国内に所蔵されているデスピオ作品は必ずしも多くない。戦前・戦中期にデスピオのオリジナル作品を日本で見る機会などあろうはずもなかった。柳原がデスピオの実作品に接したのは、戦後パリに渡ってからのことであった。

 

 美術学校のアカデミックな教育にあきたらず、自由な精神と創造を熱望する青年彫刻家たちは高村光太郎翻訳の『ロダンの言葉』(1916年)や『続ロダンの言葉』(1920年)から強い感化を受けたが、同時にロダン以後の新 しいフランス彫刻の動向を示すものとして、美術書に掲載されたブールデルやデスピオ、マイヨールらの作品写真からも、強い刺激を受けていたという。

 

 そうした写真図版は、現在の水準から見ると粗悪なものであったが、このことは1910年代に中原悌二郎が夜店で見つけた本に掲載されていたロダンの「考える人」の写真に歓喜したのとよく似た状況が、1930年代の日本人彫刻家達の間にもあったことを示している。

 

 地理的条件に加え、経済や社会情勢の制約が現代とは比較にならぬほど大きかった時代に、先進的な西洋の造形表現を摂取するために、日本人作家達は想像力を働かせて、書物や複製に頼らざるを得なかった。

 

 国画会や新制作派協会彫刻部の主だった作家たちの中で留学経験を持っているのが、第二次世界大戦以前では菊池一雄だけで、戦後も柳原義達らわずかであることは、日本人彫刻家によるフランスの造形表現の摂取の在り方にとって、象徴的といえるかもしれない。

 

 その柳原義達が渡仏する契機をつくったのは、1951年(昭和26)2月に東京で開催された現代フランス美術展に出品された同時代フランスの青年作家達の作品である。この展覧会は、柳原だけでなく、多くの日本人画家や彫刻家に強い刺激を与えた。柳原と相前後して、抽象彫刻の建畠覚造や向井良吉も渡仏したが、彼らを皮切りとして1950年代半ば以降、フランスやイタリアに留学する日本人彫刻家の数は増加していった。日本人作家が直接西洋の作品に接するようになったのは、第二次世界大戦の終了を待たねばならなかった。

 

 しかし、一方で、この時期になってもヨーロッパに留学することなく、自己の彫刻世界を確立していった作家も少なくない。第二次大戦後の日本の具象彫刻界を代表し、ログンに始まるフランス近代彫刻の造形言語を日本で最も高いレベルにまで高めた作家といわれる柳原義達、佐藤忠良、舟越保武三人の内、佐藤と舟越の二人は彫刻研究のために留学することはなかった。

 

 このように、実作品によらず文字や写真等の二次的な情報を主として行われたフランス近代彫刻の理解は1910年代に始まり、程度の差はあっても1950年代に入っても続いていたといってよい。では、このような摂取の有り様は、どのような結果を生んだのか。

 

 1910年代にロダンに心酔した中原悌二郎、戸張孤雁らのいくつかの作品が示しているように、彼らは実際の制作においてはロダンを忠実に模倣したわけではなかった。ロダンの実作品をたやすく目にすることができなかったという事情があるのだが、彼らの作品はそのスタイルにおいて必ずしもロダン風ではない。ロダンの言葉を翻訳して出版し、日本におけるロダニズムの先導者であった高村光太郎の作品についても、同様のことが指摘できるだろう。

 

 彼らにおけるロダンの影響は、作品のスタイルやテクニックよりは、むしろ彫刻という造形芸術に対する考え方、あるいは制作態度や彫刻家としての生き方に強く現れているといえる。

 

 また、ブールデルに師事した日本人作家たちが、ブールデルに強い尊敬の念を抱きながらも、彼のスタイルを模倣するだけでなく、西洋や東洋の古代彫刻等も視野に入れながら、自己の表現を確立しようとしていたことも、日本人によるフランス近代彫刻受容の特徴的な在り方の一つということができるだろう。

 

 デスピオに直接師事した菊池を除くと、1930年代に彫刻の道を歩み始めた作家たちは、ポスト・ロダンとしてのデスピオに強い関心を示しながらも、それは二次的な情報源を頼りとする観念的な理解にならざるをえなかった。日本人作家の多くがデスピオ作品を直接目にしたのは、第二次世界大戦後のことであった。

 ロダンやブールデルのように動勢や情念を直接表さず、静的で求心性を持ったデスピオ作品には、日本人の気質に一脈通じるところがあり、その造形から日本の彫刻家が少なからず影響を受けたことは私たちにも理解しやすい。

 

 しかし同時に、デスピオについて語られる時には、前掲の菊池の言説にもあるように、デスピオの「素朴で誠実であくまで自己に忠実」な彼の篤実な人間性への賞賛が常に伴っている。そうした意味では、日本人作家によるデスピオの受容にも、日本人がロダンに芸術家の理想像を見たことに始まる、観念的な理解の在り方を見ることができるのも事実である。

 

(もうりいちろう・学芸課長)

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