ここに掲載するのは1997年4月に三重県立美術館でひらかれた『ウィーン世紀末展』収載[世紀転換期をめぐるウィーン]年譜の続編である。図録の年譜が1856年のフロイト誕生からはじまっているのは唐突のようだが、本来は今回掲載する年譜と一体としてつくられたものであって、[世紀転換期をめぐるウィーン〕の興亡は偶然にも精神分析学者ジークムント・フロイトの一生のタイム・スパンに納まってしまう。ようするにフロイトの誕生とほとんど軌を一にして「ウィーン世紀末」の精神は胎動し、フロイトの死を象徴とするかのようにして「ウィーン世紀末」は死を迎えたとみることができる。[世紀転換期をめぐるウィーン]は裏からみれば「フロイトとその時代」ではないかという心である。展覧会図録では紙数がないため割愛せざるをえなかったものをここに載せるが、できれば編者の意図をくんで図録の年譜とあわせて読んでほしい。これは「読む」年譜である。基本の構成にかわりはなく、まづ展覧会に直接関連した(・ウィーンの美術と美術家)の項があり、その後に(* **ウィーンをめぐるオーストリア、ドイツの美術を含めた芸術)の動向の項をたて、最後の項は(* **ウィーンをめぐるオーストリア、ドイツの政治)状況となっている。また(*)はウィーンで、(**)はそれ以外で、その出来事が起ったことを示している。 (東俊郎・学芸員) 1919年 ・オスカー・ラスケ、戦争の経験をもとに『ファウストより』連作。 ・ペッヒェはチューリッヒのウィーン工房支店からウィーンヘもどる。・フェルディナント・アンドリはアカデミーの教授となる。 ・フェリックス・ハルタはザルツブルクで、ヴァッサーマン芸術家協会を設立。アルフレート・クビーン、ベルンハルト・パウムガルトナー、ファイスタウアー、シュテファン・ツヴァイク、ヘルマン・バール、マックス・ラインハルトなど参加。ハルタが会長となる。 ・ココシュカはドレスデンの美術アカデミー教授となる。 ・この頃ハンス・ベーラーはスイスに移住。
*1月、ウィーン市中の安ホテルでペーター・アルテンベルク窮死。 **2月、ベルリン、マルモルハウスで映画『ガリガリ博士』封切。**4月、ワイマールで、ヴァルター・グロピウスはヴァン・デ・ヴェルデの美術工芸学校の精神をうけついだ「バウハウス」を設立。ファイニンガー、ヨハネス・イッテン、オスカー・シュレンマーが教える。 *10月、ホフマンスタール台本・リヒャルト・シュトラウス作曲のオペラ『影のない女』、ウィーン国立オペラ劇場で初演。
*フルトヴェングラーは、ウィーン・フィルの「トーンキュンストラー・チクルス」に指揮者として招聘され、ブルックナーやブラームスやマーラーを知っていたという人達と交友する。 *この頃、カフェ・ツェントラルの常連は、近くのカフェ・ヘレンホーフに移る。それまでプラハに住んでいたユダヤ系作家もウィーンに出てここに合流する。「パトロンはもはやヴァイニンガーでなく、ドクトル・フロイトだった。アルテンベルクはキエルケゴールに席をゆずり、新聞にかわって雑誌が、心理学にかわって精神分析が、ウィーンのエスプリの微風にかわってプラハの嵐が吹き込んでいた。」(アントン・クー)
**5月、男女平等の普通選挙実施され、社会民主党が多数を占める。 **6月、第1次世界大戦後の対オーストリア処理をさだめたパリ、サンジェルマン条約締結。**6月、ミュンヘン、ドイツ労働者党結成。アドルフ・ヒットラーは7番目の党員となる。 **7月、ワイマール、ドイツ共和国はワイマール憲法を採択。 *経済学者フリードリッヒ・フォン・ヴィーザー『オーストリアの終末)』刊 *「オーストリア=ハンガリー帝国はもうない。だが、私はよそへ行こうとは思わない。移住は問題外だ。手足をもがれた祖国と一緒に生きてゆこう。トルソを元の全体だと思うことにしよう。」(フロイト)
1920年 ・ヨーゼフ・ホフマンはオーストリア工作連盟から脱退。・ファイスタウアー、ハルタは、ザルツブルクで現代絵画アカデミーと「ノイエ・ガレリー」を創設。 *この年からザルツブルク音楽祭はじまる。ホフマンスタール脚本、リヒャルト・シュトラウス作曲の『イェーダーマン』上演。マックス・ラインハルト演出。 *フランツ・ブライ、同時代の作家などを動物にみたてた諷刺集『現代文学動物大百科』刊。
*オットー・バウアー率いる社会民主党は連立政権から離脱、以後114年間にわたってキリスト教社会党と烈しく対立し、漁夫の利を占めたナチスの台頭をゆるす結果となった。 **2月、ミュンヘン、ヒットラーの属するドイツ労働者党は国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)と改称し、新たな綱領発表。
1921年 ・ギュータースロー、ミュンヘンからウィーンへ帰る。 ・2月、ベクルは、画商グスタフ・ネーベハイの援助でベルリンヘ遊学。
*2月、経済学者カール・メンガー歿(1840-)。 *2月、美術史学者マックス・ドヴォルジャーク歿(1874-)。アドルフ・ロースとココシュカはドヴォルジャークの墓廟を計画する(が、結局実現せず) *10月、アルバン・ベルクのオペラ『ヴォツェック』が完成。 *ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン、「物理学年鑑」に『論理哲学論』を発表。 *シュニッツラーの『輪舞』はドイツ民衆劇場でウィーン初演をはたすが、たちまち上演禁止となる。
**7月、ミュンヘン、ヒットラーはナチス党首となる。 **8月、ドイツ代表としてヴェルサイユの休戦条約に調印したマティアス・エルツベルガーは極右の将校に暗殺される。エルツベルガーはユダヤ人だった。**ヒトラーに大きな影響をあたえ、カトリックに対しても「ローマからの分離運動」を展開した過激な汎ドイツ民族主義、反ユダヤ主義者、ゲオルク・シェーネラー歿。(1842-)
1922年 ・ウィーン工房はニューヨークに支店をつくる。 *ヴィトゲンシュタインは英独対訳『論理哲学論考』をロンドンで刊。 *ウィーンを「世界の破滅のための実験場」にみたてた壮大な戯曲、カール・クラウス『人類最期の日々』刊。*アルトゥール・レスラー『エゴン・シーレの思い出』刊行。「エゴン・シーレの個性は疑いもなく生粋のドイツ人であるが、彼の内部には人びとの苦しみを共にするスラヴ系の悲哀があった。」 *サシャ・コロヴラートがウィーン郊外ジーバーリングにつくった映画撮影所で、ハンガリー出身のケルテス・ミーハイ(マイケル・カーティス)は大作『ソドムとゴモラ』を制作する。
**ベルリンでユダヤ人初の外相ヴァルター・ラーテナウ暗殺され、それと同時にドイツ・マルクの暴落がはじまる。 1923年 ・ウィーン工房のダゴベルト・ペッヒェ歿(1887-)。 ・アントン・ファイスタウアー 『オーストリアの新絵画』刊。・ヴィルヘルム・テニーはフリッツ・シルベルバウアー、アルフレート・ヴィッケンブルクと「グラーツ分離派」を結成。
*シェーンベルクは長年温存してきた十二音技法をはじめて弟子たちに公表。この年作曲した『管楽五重奏曲』にはこの理論が全面的につかわれる。 *オットー・バウアー『オーストリア革命』刊。
**シュトレーゼマン内閣はレンテンマルクの発行に踏切、ドイツのインフレ終息する。 1924年 ・ココシュカはウィーンにもどり、カール・クラウス、シェーンベルクなどの肖像画を描く。マックス・オッペンハイマーはウィーンに戻る。この年のハーゲンブントでオッペンハイマーの特別展。 *マックス・ドヴオルジャークの遺稿集『精神史としての美術史』刊。 *カール・カウッキー(1854-1938)はウィーンにもどり、晩年をすごす。
**オーストリアは新通貨としてシリングを導入。 1925年 ・ハーゲンブントはオッペンハイマーの作品200点余を展示。 ・ココシュカは父の死後、アドルフ・ロースとパリ、南フランス、スペイン、オランダ、イギリス、イタリアを旅行するc・ハンス・エッガー、パリに移住。
*ホフマンスタール『塔』刊行。 **12月、ベルリン、アルバン・ベルクのオペラ『ヴォツェック』、エーリッヒ・クライバーの指揮で初演(国立オペラ劇場)*年末、ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインは姉マルガリーテ・ストンポロウ= ヴィトゲンシュタインの新居設計に参加。建築家パウル・エンゲルマンの原案はしだいに影をひそめ、ルートヴィッヒの「思想」色の濃い、無装飾で機能的な家の構想ができあがってゆく。
**7月、アドルフ・ヒットラー『わが闘争』(上)刊。 1926年 ・2月、オットー・プリマヴェージ歿。プリマヴェージ銀行は倒産。 ・オッペンハイマー、ベルリンに移る。
**ベルリンで画商パウル・カッシーラー歿。 **12月、ベルリン、アインシュタインはフロイトを訪問。
**12月、アドルフ・ヒットラー『わが闘争』(下)刊。 1927年 ・2月、アドルフ・ベーム歿(1861-)。 ・ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインのマルガレーテ・ストンポロー=ヴィトゲンシュタイン邸着工。
*グスタフ・ウチツキ監督の映画『カフェ・エレクトリック』封切り。ウチツキは翌年ドイツへ渡り、ナチ政権下で『あかつき』『帰郷』などを撮る。 1928年 ・アントン・コーリッヒはヴュルテンベルクアカデミーの教授となる。 1929年 ・ギュータースローはウィーン工芸美術学校の教授となる。 *7月、アルマ・シントラー=マーラー=グロピウスはフランツ・ヴェルフェルと結婚。 *7月、フーゴー・フォン・ホフマンスタールは長男フランツの死と時をおかず逝去(1874-)。
**ニューヨークで株式大暴落。世界恐慌はじまる。「政治は魔術だ。心の奥底の力を利用することを知っている者に人々はついてゆくだろう。」(ホフマンスタール) 1930年 *ロベルト・ムージル『特性のない男』第1巻刊行。(~43年) 1931年 ・生前一度も展示されることのなかったゲルストルの作品が画商オットー・カリアー=ニーレンシュタインによって倉庫から発見される。ニーレンシュタインは自分の「新画廊」でこれを展示。 ・ヴィルヘルム・テニーはパリに移住。
*10月、アルトゥール・シュニッツラー、ウィーンで歿(1862-)。 **ドイツ、ウィーン会議を背景にした映画『会議は踊る』封切り。監督はエリック・シャレル。
**5月、ウィーンの大銀行クレディート・アンシュタルト倒産する。 1932年 ・ウィーン工房は経済的にゆきづまり解散、9月、全財産の競売がおこなわれる。 ・ヨーゼフ.ホフマンはオーストリア工作連盟から脱退する。・アントン・ハナークはウィーンの工芸美術学校からアカデミーへ移る。
**9月、エミール・オルリック、ベルリンで歿(1876-)。 *シェーンベルクの反オペラ『モーセとアロン』完成。「拒否されるのは、カトリックの恩寵の文化(そこでは言葉が化身して肉となって顕われる)であり、ブルジョワジーによるこの恩寵の文化の世俗的適応(その目的は、この階級にとって何よりも大切な法の文化の補足と純化にある)であり、そして最後には、世紀末の自由主義の危機に見られた、価値の源泉・宗教の代用品としての芸術への逃避である。」(ショースキー)
1933年 ・8月、アドルフ・ロースはウィーンの療養所で歿。・ココシュカ、パリからウィーンヘもどる。 *5月、シェーンベルクはベルリンを去る。 *ヴィリ・フォルスト監督映画『未完成交響曲』**ドイツ工作連盟は解体される。
**1月、ドイツ、ヒットラーはヒンデンブルク大統領によって首相に任命され政権をとる。 **2月、ベルリン、ナチス、国会議事堂に放火。*3月、オーストリア、エンゲルベルト・ドルフス首相は議会制を廃止。 *6月、オーストリア、ナチスを禁止。 **10月、ドイツは国際連盟とジュネーヴ軍縮会議を脱退。
1934年 ・アントン・ハナーク、ウィーンで歿(1875-)。 ・ヨーゼフ・ホフマンはヴェネチア・ビエンナーレのオーストリア館を設計。
*ヴィリ・フォルスト監督映画『たそがれの維納』。 **1月、ヘルマン・バール、ミュンヘンで歿。
**7月、エンゲルベルト・ドルフスはナチスに暗殺される。 1935年 ・6月、アルフレート・ロラー、ウィーンで歿(1864-)。 ・ベクルはアカデミーの教授となる。
*ラインハルト門下の名優アレクサンダー・モイッシ、ウィーンで歿(1880-)。 **ドイツ、ユダヤ人の市民権を剥奪するニュールンベルク法制走。 1936年 ・ヨーゼフ・ホフマン、ウィーンの工芸美術学校を退く。 ・ハンス・ベーラーはニューヨークに移住。
*ヴィリ・フォルスト監督映画『ブルク劇場』 *「労働者新開」廃刊。*カール・クラウスは『ファッケル(炬火)』の刊行を36巻922号をもって停止。6月に逝去(1874-)。
*「ヒットラーについては、わたしは何も言うことがない。」(カール・クラウス) **「あらゆる惨劇が起こってしまった。彼の予言は何より厳しいものであったが、あのような恐ろしい事態から正しいことが証明された。かくして、ついに沈黙に至ったのは、まるで山に登っても滅びた都市を見おろすことのなかった予言者サムエルのようである。最も厳しい予言は災いによって証明された予言者の言葉なのである」(ハリー・ツォーン)**スペイン内乱はじまる。
1938年 ・マックス・オッペンハイマーはナチスを逃れてベルリンからスイスヘ。翌年ニューヨークに亡命。 ・ギュータースローは工芸美術学校をナチスによって解雇される。・ゲルハルト・フランクルはロンドンに亡命。・ヴィルヘルム・テニーはニューヨークに定住する。 ・アウグスト・レーデラーは、クリムトの『哲学』をふくむ全所蔵品を没収される。 ・ハーグンブント、解散する。
*6月、フロイトはロンドンに亡命。 *「ノイエ・フライエ・ブレッセ」廃刊。
**2月、ヒットラーはオーストリア併合を宣言。 **3月、アイヒマンはウィーンにユダヤ人の外国移住のための中央管理局をもうけ、ユダヤ人を国外に追放する。
1939年 ・分離派と「キュンストラーハウス」は再び合体する。 ・フェリックス・ハルタはイギリスに亡命。・ユングニッケルはユーゴスラヴィアに亡命。 *9月、亡命先のロンドンでジークムント・フロイト歿(1856-)。
(東俊郎・学芸員) |