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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.51-60) > 村山槐多《自画像》

村山槐多(1896-1919)《自画像》

1918(大正7)年 木炭・紙 52.8×34.2センチ

 傍若無人で我がままのしほうだい、唯我独尊をうそぶいて他にひとなきがごとく、どんな弾をもとおさないあつかましい鉄の膚をもっているかにみえて、じつはこのわかもの、心におおきな荒野をかかえながら、衆人のまえではせせら笑ってとりあわない清列玉のごときひとへの愛を、ひそかに、しかしどこまでも馬鹿正直に願っている・・。あれこれかんがえたあげく、ちかごろ村山槐多はどうもそんな出来のひとだったような気がしてならない。すなおで多感でかしこい少年槐多に或る日ふいにそとからやってきたなにかが、その健康なからだに受肉する。それがすべてのはじまりで、それを運命とみさだめるひまもなく、やってきたものとともにかれは地上から姿をかくす。してみると生きいそいだことさえもほんとうはしいられた不可避のみちゆきだったかもしれない。

 

 そしてそういう槐多は自画像をたくさんえがいた。自画像についてよくいわれるように、そこでかれは「私とは何か」とといかけたのだろうか。そうでもあり、そうでもないとしかいえない。わたくしさがしはたいがい私を失う悪循環のゲームとなる。かれにはたらいた力学はもっと命令的で、かんがえる余地がないほどきびしいものである。つまり「私はなにか」ではなく「私をあやつるものはなにか」。或いは「あやつられる私はなにか」。自己から自己にいたる無限の距離をめぐってのその選ばれたものの不安があるかぎり槐多は自画像をえがきつづければならなかった。そしてそれはどれもいいできばえをしめしている。なかでもこの自画像は、自分の運命がだれかがしくんだドラマだとしてもそれならそれをひとつ演じてやろうじゃないかといいつつも、いいかげんおわりにしたいとでもいいたげな疲労と諦観をにじませていて、もしかれがイタリア語を知っていたなら“Finita la comedia!''とでもいいそうなけはいである。

 

(東俊郎・学芸員)

 

年報/村山槐多展

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