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村山槐多展より

村山槐多とエゴン・シーレ

酒井哲朗

 村山槐多が亡くなったのは1919(大正8)年であり、エゴン・シーレが 死んだのは1918年である。槐多は23歳、シーレ28歳。ともに早世し、同じ時代を生きた。実は槐多とシーレの比較というようなことはこれまであまり考えたことはなかったが、たまたま昨年レオポルド・コレクションによる「ウィーン世紀末」展を開いてシーレの作品をまとめてみる機会に恵まれ、その後「村山槐多展」を開いたために、東西のふたりの夭折の画家を見くらべる結果になったのである。

 

 シーレは1890(明治23)年にオーストリアのトゥルンに生まれ、ウィーンの美術アカデミーに進むが、ここでの美術教育にあきたらず仲間とともに美術学校を中退して、1909(明治42)年に「新芸術家集団」を結成した。シーレは1907(明治40)年にグスタフ・クリムトと知り合い、1909年にクリムトが組織委員長をつとめるクンストシャウ(国際美術展)に4点の絵を出品している。1911(明治44)年にミートケ画廊ではじめての個展を開き、この年母親の故郷であるクルマウに移り多産な制作活動に入った。

 

 しかし、土地の少女をモデルにしたり、モデルのヴァリー・ノイツィルと同棲生活をしていたことなど、シーレのライフスタイルがクルマウの人々の反感を買ってスキャンダルとなり、翌年ウィーン郊外のノイレングバッハに居を定めるが、ここでは未成年の少女を誘拐した嫌疑で逮捕、拘留された。

 

 シーレは1911年に「オーストリア芸術家同盟」の会員になり、作品20点が同盟の展覧会に出品され、また、ゴルツ画廊で大規模な個展が開かれた。1914(大正3)年の暮れから翌年にかけて、ウィーンのグィド・アルノート画廊で重要な回顧展が開かれ、この年6月にエディット・ハルムスと結婚、4日後召集され、兵役につく。シーレは、1918(大正7)年の第49回ウィーン分離派展で大ホールを与えられ、画家としてようやく評価が定まったかにみえたが、この年10月28日に妊娠中の妻エディットがスペイン風邪により死亡、3日後シーレも同じ病気で後を追うように死んだ。

 

 シーレは世紀末のウィーンが生んだ画家であるとしても、実際のシーレの活動期間、そして他のだれでもないシーレ独自の芸術の特色が明瞭となるのは亡くなる前の10年間くらいであり、その意味でシーレは20世紀の画家である。一方、村山槐多が画家として登場したのは、1914(大正3)年、槐多18歳の時の第1回二科展に《庭園の少女》など数点が入選して注目された時点とみてよいだろう。以後、わずか5年間が槐多の活躍期間である。

 この間両者は、オーストリアと日本でそれぞれ無関係にそれぞれの時を生きたわけである。

 

 ウィーンでゴッホやゴーギャンが紹介されたのは1900年代はじめであり、日本でかれらが紹介されたのは1910年代はじめである。1903(明治36)年1月に開かれた分離派第16回展にボナール、ゴーギャン、ルドン、ロートレック、ゴッホなどが展示された。この頃からヨーロッパ諸国の新傾向の芸術が次々と紹介されるようになり、クリムトの友人である宝石商のパウル・バッハーが経営するミートケ画廊で、ゴッホ、ゴーギヤン、ムンク、ピカソなどの作品が次々と紹介された。1906(明治39)年にこの画廊でゴッホの作品が45点展示され、この年アカデミーに合格したシーレやココシュカ(前年美術工芸学校に入学していた)を感動させた。翌年ミートケ画廊でゴーギャン72点が展示され、この年ココシュカはウィーン工房に入り、シーレはクリムトと知り合う。翌1908(明治41)年にシーレもクリムトの紹介でウィーン工房に入り、その翌年の1909年にシーレはアカデミーの師グリーペンケールと衝突して退学し、ミートケ画廊で開かれたロートレック展でロートレックの描く女に惹かれたのもこの年である。

 

 1910(明治43)年にココシュカはベルリンに行き、ヘルヴァルト・ヴァルデンが創刊した批評誌『デア・シュトルム』を手伝い、ノルデ、ヘッケル、キルヒナー、ペヒシュタインらドイツ表現派の「ブリュッケ」の画家たちと交流し、カッシーラー画廊で個展を開く。翌1911年はシーレが先述のようにミートケ画廊で初個展を開き、秋にはミュンヘンのゴルツ画廊でシーレの 作品が展示され、クレーやクビンが所属していた「ゼマ」の会員になる。この年はミュンヘンでカンデインスキーやクレーが「青騎士」第1回展を開いた年であった。1913(大正2)年にはシーレの個展がゴルツ画廊で開かれ、さらにベルリンでも開かれ、こうしてシーレの芸術はミュンヘンやベルリンでも知られるようになる。

 

 日本にゴッホやゴーギャンが紹介されたのは1910年代はじめであるが、1911(明治44)年に創刊された雑誌『白樺』がその点で功績があったことはよく知られている。ウィーンのミートケ画廊でゴッホ展が開かれた1906年に、ルトヴィッヒ・ヘヴェジ『分離派の八年』が刊行され、そのなかで黒田清輝らの「白馬会」が日本の分離派として紹介されている。しかし、1910年代に入ると、日本でも1911年に高村光太郎が「緑色の太陽」(『スバル』4月号)という文章において芸術家の個性の絶対的自由を主張し、ルイス・ハインドの『後期印象派』が紹介され、『白樺』を中心に「生の芸術」が熱烈に叫ばれ、萬鐵五郎の美術学校卒業制作の《裸体美人》(1912)や ヒューザン会の出品作などにゴッホやセザンヌらの影響が現れはじめた。

 

 木下杢太郎はこういった現象について、大正2年2月の『美術新報』誌上の連載記事のなかで、フューザン会展の作品に即しつつ、「洋画に於ける非自然主義的傾向」を指摘した。木下は、フューザン会の画家たちの作品に ついて、原色の使用、形体の単純化、主観の直接的吐露、伝習の否定などの特色をあげ、『青騎士年鑑』を参照しながら、このような「非自然的傾向」は、日本だけではない共時的な世界的動向であるとみなした。村山槐多は、1910年代のこのような「非自然主義的傾向」の「生の芸術」の潮流のなかから出現した画家である。槐多が《庭園の少女》を出品して世に認められた第1回二科展は、ヒューザン会の延長線上に成立した在野展であった。槐多のようなまったく無名の若い画家の未完成の小さな作品が受賞したのは、1910年代という時代を象徴する画期的な出来事であった。この作品にみられる若々しい生命感情の充溢が、あまたの技巧的作品を圧倒したのである。

 

 ウィーンにおけるシーレのように、槐多もまた日本の若き天才画家であった。木下もいうように表現主義的芸術は世界的な動向であり、その意味では槐多はシーレと同じ時代を大きな連関のうちに生きていたといえる。しかし、この両者を具体的に比較してみると、その違いの大きさもまた顕著である。

 

 シーレはクリムトの影響を受けている。レオポルド・コレクションの《装飾的背景に置かれた様式的化された花》(1908)などにそれは明らかである。しかし、生と死、エロティシズムなど両者に共通のモチーフをとってみても、クリムトの曲線的な絢爛たる装飾的、耽美的な画面に対し、シーレのそれは鋭角的な線描と激しい筆触、大胆なデフォルメによって構成され、人間存在の根源的な不安を表象して悲劇的相貌を示す。シーレの裸婦は、ケネス・クラークのいう美の表象としての裸婦「The Nude」ではなく、不安にふるえる裸体「The Naked」である。シーレの人物たちの大きく見開いた目は内面の不安を物語り、目を閉じた人物たちは底深い悲哀の感情を内包している。シーレの芸術は、いわば悲劇的な世界感情の表出のヴァリエイションである。19世紀末ウィーンの爛熟した文化を背景に、シーレは、20世紀の悲惨な人間の状況を予見するかのような作品の世界を創造した。

 

 これにくらべれば、村山槐多の芸術はむしろ健康な芸術である。19世紀の日本にも十分に爛熟した伝統文化は存在した。これらをデカダンスとして継承したのは竹久夢二や岡本神草や甲斐荘楠音ら1910年代の日本画家たちである。槐多自身はデカダンスを自認していたが、それは彼の新しい芸術に対する世間の無理解や古い因習、経済的困窮に対する嫌悪や抵抗に基づく実生活上の逸脱である。それは永井荷風のいう「爛漫たる文明の花が風もない黄昏の微光に散りなんとする美しい疲労の態」(『紅茶の後』1910)のデカダンスとは異なる。「走れ小僧 金の小僧 走る走る走る 走れ金の小僧」(1918)と自ら歌うように、槐多はその短い生涯に生命を激しく燃焼させ疾走するように生きた。

 

 槐多の作品に「夜の自画像」と呼びたいような『自画像』(1916・三重県立美術館蔵)がある。暗い背景から浮かび上がるように人物を表し、陰影を激しく対照させたこの自画像は、私見であるが、近代日本の自画像中の優品というべきものである。画面中央、人物の背後に縦に白いカーテンのようなものが描かれており、そうだとすると形は不分明だが右側の背景は窓外の風景ということになり、画面最奥の漆黒の平面に雪のような白い斑点がみえる。少なくともこの自画像の背景は、単なる絵画効果としての色面ではなく、槐多は人物像と背後の形象によって、作品を構成しようとしていることは確かである。この毅然とした内省的な若々しい自画像を暗い闇が囲繞する。この暗さは槐多が感じた時代の暗さであり、他ならぬわれわれの近代なのである。

 

(さかいてつお・館長)

 

作家別記事一覧:村山槐多

村山槐多「自画像」1914-15年頃

村山槐多「自画像」1914-15年頃

 

エゴン・シーレ「首を傾げた自画像」

エゴン・シーレ「首を傾げた自画像」 

1912年

 

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