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浅野弥衛先生の想い出

伊藤利彦

 浅野先生とお知りあいになったきっかけというのは、私が美術文化展に出品したことによります。昭和31年くらいのことだと思います。浅野先生と会う前に小林(研三)さんとお知り合いになったのですが、それは私が学校を出て、京都からこちらへ帰って、こちらには誰も知りあいがないものですから、ある人の紹介で小林さんにお会いしました。小林さんの所でモデルのデッサンをやっておられて、そこへ行かせていただくようになりました。そこである人から美術文化を勧められたんですね。それで美術文化に出品するようになって、浅野先生とお知りあいになった、そういう経過があります。小林さんと浅野先生は、それよりもちょっと後になりますかねえ、県展の審査員になられて、お二人はお知りあいになられたんだと思います。小林さんと三人はその後、いろんなところで長い間ご一緒しました。

 

 私が美術文化に出品した翌年に、京都の駅のホームで美術文化の会員どうしの殴打事件というのがありました。それが新聞に出たことがありまして、分裂することになったんです。分裂して新象美術協会とに分かれたわけですが、その時にどうしたらいいかと思って、当時の美術文化の代表だったのが福沢一郎さんでしたので、手紙を出すと、返事をもらったんです。その中に浅野さんが近くに居られるので相談するようにと書いてありました。

 

 その前後に名古屋で美術文化の研究会がしばしばありまして、大体夜だったんですが、名古屋へいって、帰りになるとどうしても近鉄で帰ることになります。その際出席した三重県の人は皆同じ電車になるんですが、その中に浅野先生が見えまして、先生を知っている人が紹介してくれたんです。その電車の中で話をしながら、一度うちへ遊びにきなさいといわれるようになって、それでおうかがいしたのが最初のきっかけなんですね。その時岡田久春さんも美術文化の会員でたいていいっしょでした。でおうかがいして、そうするとどういうわけか波長があうといいますか、大変親密にしていただくようになりました。浅野先生という方は多少好き嫌いをされる傾向もあったようなんですが。

 

 想い出の中でもう一人、今は亡き諸岡信二という方の事を申さねばなりません。私が勤務していました三重郡川越町の明和中学校(現在は川越中と朝日中に分離)に、私が浅野先生とお知り合いになって間も無く諸岡という方が校長先生として来られました。或る時、ふとした事から、この諸岡先生が戦時中、中国の戦線で浅野先生の上官であった事がわかりました。浅野少尉は諸岡中隊長の副官だったのです。諸岡校長は親分はだの人情味のある方でして、浅野先生が一時期旧制神戸中学(現神戸高校)の配属将校になられたのも諸岡校長の御配慮によるものでした。「浅野さん、あんたは長男やで死ぬとあかんで」と言われた、という事をお聞きした事があります。私が諸岡校長に浅野先生の画家としての御活躍をお話しますと、「ほ−、弥衛さんがな−」と言って感心されました。一度、諸岡校長が退職されてから、酒好きの諸岡さんの御自宅へ、あの頃お好きだったという銘柄のお酒を持って、訪問された事があります。戦時中以来の事だったそうですが、このような諸岡さんとの事も、浅野先生が私に対して親密にしていただいた原因の一つになっているんではないかと思っています。

 

 それで浅野先生のところにおじゃましますと、たいていもうちょっともうちょっとということで、何もないけど御飯を食べていって下さいといわれることになるんですね。それでずるずると夜まで、8時か9時頃までお話をしてたんですけど、冬などは夜の9時頃にオートバイに乗ると凄い寒さで胴震いがする程でしたが、若かったのですね。当時はうちに電話がなかったので、連絡もいれずにお邪魔していましたが、いつも快く迎えていただきました。本当に数えきれないほどお邪魔しましたが、その度に、まあ近作を見て下さいといわれるものですから、ほとんど作品は全部アトリエで拝見しているといっていいくらいです。特に浅野先生が版画を始められてから一年くらいたってからかと思いますが、いっしょにどうですかといわれるもので、私もエッチングのプレートを家で彫って、浅野先生の所で腐蝕していただき、それからいっしょに刷っていただくことをずっと続けていました。月曜日にやっていましたね。というのは、池田(昭)さんの画廊が月曜日が休みだったからです。エッチングのインクをつめて拭き取りをするのは先生御自身で、プレス機の操作を池田さんがやりました。私は学校が終わってから行ったんです。刷り終わると夜の7時半くらいになるので、それから三人で御飯をいただいて、寝ころんで世間話をし、9時頃に私の車で池田さんをうちまで送って、浅野先生は車に乗るのがお好きでしたのでいっしょに乗って行かれて、また浅野先生のお家へ戻って、それから帰るということを、大体1年くらいしていました。

 

 浅野先生と良くお話ししたことといいますと、いっしょに外国へ旅行した時のこととか、名古屋の画廊のこととか、そんなことですか。で、お話が上手でした。画廊なんかでも、ほとんどまわりの人を退屈させなかったですね。

 

 外国へも三度ほどごいっしょしました。いつも小林さんもいっしょでした。最初に行った時は、まずパリへ、それからジュネーヴ、ローマというコースでした。ツアーでいったんですが、浅野先生がリーダーで、我々のグループだけかたまって行動しました。二回目に行った時は、小林さん、美子さん、池田さんといっしょだったんですが、その時も浅野先生がリーダーでした。シャンゼリゼのフーケという有名なレストランに行きまして、20年も前ですから日本人というとじろっと見られるようなところがあったんですが、それも浅野先生に連れて行っていただいたので、我々だけでは行けないと思いましたね。

 

 我々の仲間というと小林さんとか他の人たちと10人程で毎年忘年会をやりました、そういう時でも浅野先生が中心だから、皆集まって来るというところがあるんですね。

 

 浅野先生は東京での個展の初めの頃は、東京へ行くというのは敵地に乗りこむような感じだと言っておられました。それくらいいきごみをもっておられました。今はもう無い銀座のイトウ画廊でしたか、最初はよかったんですが、二回目の時は、ちょっと売れゆきが悪くて、そうすると画廊の態度も作家に対して何となくそっけないというか、そういう感じが見えて、その時しみじみと後で、「針のむしろにすわっているような気がした」といわれてました。今では考えられない事ですが。私が展覧会をした時もついてきていただきました。当時東京へ行くと東宮御所の正門の前に若葉荘という教員の宿泊所がありまして、木造二階だてで、おそらく東宮御所のおつきの人たちの宿舎だったのを、教職員組合が買い上げて宿泊所にしたんだろうと思うんですが、そこでよくごいっしょに泊まりました。歩いて四谷の駅に行くんですが、その途中に迎賓館とか学習院初等科とかそういうのがありました。

 

 我々は先生も小林さんも私もお酒には縁がなかったんですが。よくいっしょに名古屋へ出かけました。私が教員を辞めてからは、ウィークデイの昼前に名古屋へ行って、名古屋駅辺で三人でサウナへ入り、そして映画を見て、それからレストランで昼食を食べ、画廊を二、三軒まわって、コーヒーを飲んでというコースでしたね。映画は『ノスタルジア』とか『そして船はいく』なんかが印象に残っています。終わると映画の感想を話し合ったりしました。

 

 それから浅野先生の先生というと野田さんですが、その方のことは電車の中でうかがったんですね。60歳くらいで旧家の方で、滋賀県の日野町に住んでおられ、詩人でということを聞いたんです。現代美術にたいへん詳しい方で、浅野先生が抽象絵画を描くようになったのは、野田さんの影響が大きいということを聞いたんですが、どんな方だろうと凄く興味があったわけです。ある晩浅野先生のところへうかがうと、今晩野田さんが来られるということを聞きまして、ちょっとわくわくして待っておりました。野田さんは背が高くて、痩せぎみで、60歳といってもとても若い方で、ひじょうにモダンな方でした。浅野先生は、野田さんとはひじょうに親しいんですが一目おいておられて、野田さんの批評をたいへん大事にされるようでしたね。作品を見せられるんですが、お互い知り尽くしておられる間柄だけにあまり多くは言われませんでした。後でうかがうと、だいたい見られて、「ふうん」と一言、そういう時は、あまりいい批評じゃないんだとかいわれました。もっとも、なかなか野田さんの批評には納得されなかったこともあったと思います。お二人のやりとりがなかなか面白かったですね。滋賀県の日野の方へは、何度もごいっしょしました。はじめは車がなかったんで、小林さんと三人で関西線で時間がかかりましたが、そのうち私の車でお邪魔しました。

 

 よく浅野先生が口ぐせのようにいわれたのは、私は日本の抽象を描くんだということですね。日本という国は、作品を作る上で、世界的な目で見た場合にひじょうにむつかしい国だと思うんですね。というのは、伝統と現代性といいますか、それがうまくかみあうことが少ないと思うのです。伝統的な、たとえば江戸時代までの美術を今日そのまま受け継いだら、今の生活とあわないんです。一方今の生活から生まれた美術というのは、ヨーロッパのものと変わらないと思うんですね。今でも西洋画と日本画とありますけれども、これは日本の特殊性を物語っていると思います。ですから、民族性、伝統性と現代性を一つにして表現するというのはひじょうにむつかしいと、そういうことをいつも思うんですけれども、浅野先生の場合はそれがうまく、調和していると思います。それが浅野先生の作品に対する、私の見方ですね。全く稀有な例じゃないかという気がします。あの中にはひじょうに日本的なものがありますが、個性ということもありますが、一つはおうちの生活の環境も大きいように思いますね。考えてみると、本当に現代性と伝統的な感性というのが一致している作品というのは、日本中見ても珍しいんじゃないかと思います。私は、昭和30年代からずっと作品をほとんど拝見しました。展覧会前だと、私などほとんど問題にならないんですが、それでも見て下さいといわれて、意見をいいますと、ああよかったそれで安心したとか、いわれましたけどね。浅野先生は私にとっては唯一の先生だと思っています。私の学校時代は日本画ですから、学枚時代の先生というのは、学校へ入って2年目か3年目に日本画がいやになりましので、ほとんど影響がありません。その後おつきあいしたのは小林さんとか浅野先生ですが、特に浅野先生の影響は大きいと思います。先生は具体的に私の作品についてこうしたらというようなことは全然いわれない方でした。作品の傾向はまったくちがいますけれども、いろんな意味で大きな影響を受けていると思いますね。作品の上だけじゃなくて、生き方とかそういうこともふくめて。(談)

 

(1996.3.28/いとうとしひこ・美術家)

 

年報/浅野弥衛展

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第16回美術文化展に出品した 浅野弥衛展「作品」1956年

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浅野弥衛展「作品」1956年

 

 

第17回美術文化展に出品した 浅野弥衛展「作品」3点 1957年

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第19回美術文化展に出品した 浅野弥衛展「序奏」1959年

第19回美術文化展に出品した

浅野弥衛「序奏」1959年

 

 

桜画廊の元永定正展会場で(左から長女泰子、浅野弥衛、伊藤利彦、元永定正)1971年

桜画廊の元永定正展会場で

(左から長女泰子、浅野弥衛、

 

伊藤利彦、元永定正)1971年

 

 

和歌山県白浜で(左から浅野弥衛、小林研三、伊藤利彦)1975年

和歌山県白浜で(左から浅野弥衛、

小林研三、伊藤利彦)1975年

 

 

長女の家族に囲まれて 1993年4月

長女の家族に囲まれて 1993年4月

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