このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

白樺派とカール・ラーション

荒屋鋪 透

 19世紀末スウェーデンの水彩画家カール・ラーション(1853−1919)には晩年に執筆した1冊の自伝がある。フランス留学中に滞在した、バルビゾンに近い芸術家村グレーで始まった結婚生活、ストックホルム芸術サークルの劇作家ストリンドベリとの出会いと訣別などが、死を意識していたかもしれない画家の率直な言葉で回想されている。自伝はラーション没後12年の1931年に出版された。日本美術に生涯関心をよせ、蒐集した錦絵や屏風をアトリエに飾っていたラーションの家は現在、5月から9月まで記念館として公開されている。ストックホルムから列車で3時間あまり、伝統手工芸で有名なダーラナ地方の小さな村スンドボーンにあるリッラ・ヒュットネース(ラーションの家の愛称で「岬の小さな製錬小屋」の意味)(fig.1)は、水彩画シリーズ『わたしの家』によって知られているが、英国のアーツアンドクラフツ運動の北欧における実践の場であった。妻カーリンと共同制作したテキスタイルや家具に囲まれた家族の記録。このシリーズの端緒となった油彩画《小さなスザンヌ》(fig.2)について、自伝には次のような記述がある。「娘のスザンヌは生後4日目からモデルをつとめ、こうしてわたしの子どもたちを描いたシリーズが始まった。はるか日本の人々でさえ、わたしの子どもたちの名前を知っているので、そう公言するのだが、これらの作品は後に世界中で有名になったのである」(1)。カール・ラーションは1919年、大正8年に亡くなったが、なぜ日本人が自分の作品を知っていると自伝に記すことができたのだろうか。

 

 明治44年、1911年10月12日の読売新開に「泰西版画展覧会を観る」という記事が掲載された。これは白樺派が主催した展覧会を紹介したもので、同展は東京、赤坂霊南坂の三会堂において10月11日から20日まで開かれた。泰西版画とはいうものの、ヴァロットン、ムンクが一部複製で出品され、39作家189点のなかには、もっとも点数の多いビアズリーが33点、ロップス、オルリク、ソーンといった19世紀末の版画史を飾る画家が名を連ねている。このなかにカール・ラーションの名前が見られるのである。記事の一節に「ラルソン(瑞典 一八五三〜)のは水彩画のを版にした複製もので、其題材はすべて画家の家、画家の家族で如何にも温いもの、色もそれに相応し版とは見えぬほどであった」(2)とある。目録によると、展示されたラーションの水彩画の複製は16点。水彩画シリーズ『わたしの家』から8点と『ラーション家の人々の8点である。出品点数は他の画家にくらべて多いともいえる。ちなみに、その原画である水彩画が今回の『カール・ラーション展』(三重県立美術館ほか、1994年)に5点出品された。《田舎家》 《お母さんと娘たちの部屋》 《片隅で》 《中庭と洗濯小屋》《ザリガニ捕り》である。目録の冒頭には、ヴォルプスヴェーデ芸術家村の画家で、雑誌『白樺』表紙図案を描いたハインリッヒ・フォーゲラーの版画14点が見られるが、このフォーゲラーとラーションの芸術的実践には共通点がありそうである。そしてラーションの複製画を白樺派が集めたのも、そうした理由からではなかったのか。幸い軽井沢高原文庫において、1990年『フォーゲラーとリルケ展――ヴォルプス ヴェーデの芸術家たち』(3)という企画が開催されているので、ヴォルプスヴェーデとフォーゲラーについては詳細に知ることができる。 

 

 北ドイツのブレーメン北西にある村、ヴォルプスヴェーデに画家フリッツ・マッケンゼンが訪れたのは1884年のこと。以後デュッセルドルフ美術アカデミーの学生オットー・モーダーゾーン、マッケンゼンの友人ハンス・アム・エンデが加わり、1894年ハインリッヒ・フォーゲラーの訪問によって、この芸術家村は新しい芸術運動の発信地となる。フォーゲラーが同地の農家を購入し、その内部をユーゲントシュティール風に改装、住居から日用品にいたるまで自身のやり方で様式化したからである。1895年フォーゲラーはミュンヘンで成功し、ヴォルプスヴェーデ派の画家たちの作品がベルリン、ドレスデンなどでも紹介された。1900年から翌年にかけてヴォルプスヴェーデを訪れた芸術家には劇作家ゲルハルト・ハウプトマン、美術史家リヒャルト・ムーター、詩人のリルケらがいる。リルケの評伝『ヴォルプスヴェーデ』は同時代人の見た芸術家村の記録である。明治44年の白樺派による泰西版画展覧会には、フリッツ・オーヴァーベックを含むヴォルプスヴェーデ派の作品が出品されている。

 

 帝塚山学院大学の山田俊幸氏は『フォーゲラーとリルケ展』カタログのなかで、『白樺』創刊とともに同人となった美術史家、児島喜久雄が20世紀初頭ドイツの新理想主義を自身の美術史の出発点としたことを指摘し、新理想主義にある自然主義の洗礼をうけた装飾的傾向と象徴的傾向を、フォーゲラーへの白樺派の傾倒ぶりに関連づけている。「フォーゲラーの立場は、児島の分類によるならば『新理想主義』の装飾的傾向に『趣味ある調和』を追うものであり、分離派や印象派におけるような『ダイナミックな気運』によるものではない」(4)。そして「ロダンの登場で新しい局面をむかえてゆく以前の、『白樺』の初期の運動を考えるうえに、このフォーゲラーの登場と忘却ほど恰好な題材はない」(5)として、白樺派にあった美術工芸運動への関心と、その理想的な実践の場としての芸術家村について論究している。そうしてみると、柳宗悦がフォーゲラーの紹介にもっとも意欲的な白樺派のメンバーであったことも頷けるのである。

 

 1880年代前半をフランスの芸術家村グレーでおくり、帰国と同時に反逆派運動(オプーネント)に参画したスウェーデンの外光派画家たちは、85年ストックホルムで『セーヌ河畔より』展を開催し、反アカデミーを主張する。そして90年代には祖国西岸のヴァールベリに滞在、当時北欧芸術全体に浸透した国民ロマン主義の洗礼をうけ、綜合主義的な作品を制作していく。ヴァールベリにはカール・ヌードストローム、ニルス・キュレーゲル、リッカルド・ベリといった画家たちが集い、ゴーギャンの影響を受けた風景画を描いていた。このヴァールベリ派誕生の少し前に、ラーションはこの地を訪れて1点の水彩による風景画《夏の夕まぐれ》(1887年)を制作している。

 

 だが、ヴァールベリ派が1890年代に、しだいに簡略化した色面による綜合主義を模索していた時、ラーションはひとりスンドボーン村にこもり、水彩画によるシリーズ『わたしの家』の制作に着手する。このシリーズは1897年には20点が完成してストックホルムで公開されており、1899年スウェーデンのボンニエル出版社から画集として刊行された。白樺主催の泰西版画展覧会に出品された複製もこの画集から選ばれたに違いない。展示作品のうち、前述した5点とともに紹介された『わたしの家』の3点、《白樺の木陰での朝食》(fig.3)《窓辺に置かれた花》《ネーム・デイ(命名日のお祝い)》はシリーズ26点中の代表作であり、セットで購入した可能性もあるが、白樺同人の確かな選択を見ることができる。

 

 しかし明治45年2月の『白樺主催第四回美術展覧会』第2室に展示されたフォーゲラー作品への同人の関心は、第3室に飾られたロダンの彫刻3点への情熱とは対照的に、急速に終息してしまうのである。同年4月の『第五回展』にはまだフォーゲラーもラーションも展示されているが、大正2年の『第六回展』には両者とも出品されず、かわってゴーギャンとゴッホがロダンとともに展覧会の中心にすえられる。束の間のカール・ラーションの紹介はフオーゲラーヘの白樺同人の関心と軌を一にしている。 

 

(あらやしきとおる・学芸員)

fig.1

fig.1

 

fig.2

fig.2

 

註1.Carl Larsson:The Autobiography of Sweden's Most Beloved Artist. Edited by John Z.Lofgren, Translated by Ann B.Weissmann, Penfield Press, 1992, P.112.(Carl Larsson: JAG-En bok om och p(°)aba(°)de gott och ont,1931.)

 

*この1992年の英語版による自伝は、1931年に出版された原著、1969年と85年の復刻版によっている。

 

註2.『読売新聞』明治44(1911)年10月12日付。

 

註3.『フォーゲラーとリルケ展――ヴォルプスヴェーデの芸術家たち』軽井沢高原文庫、1990年4月20日〜

7月15日。同展カタログには、上山安敏氏、河中正彦氏、城真一氏による対談「夢見られた共同体―芸術家村の宿命」ほか貴重な資料、論稿が掲載されている。

 

 

註4.山田俊幸「『春』の画家フォーゲラーヘの旅―児島喜久雄の記録から」前掲カタログ、P.41.

 

註5.山田俊幸「ハインリヒ・フォーゲラー追跡・T−『白樺』とのかかわり」『帝塚山学院大学研究論集第22号』昭和62年12月、P.28.

 

fig.3

fig.3

ページのトップへ戻る