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佐藤忠良 初期作品断想

毛利伊知郎

 佐藤忠良の現存作品中、最も早い時期の作品に、彫刻家自身の母をモデルとした「母の顔」(1942年)、「母の像」(1943年)という頭像がある。佐藤が戦前に制作した作品は、1941年作の「母の顔」と、この2点の母親の像を除き、すべて戦災で失われてしまった。したがって、これら戦前の頭像3点は、戦後の本格的な制作活動に先行する彫刻のスタイルを伝え、また佐藤の彫刻作品の出発点を示す作品として、その意義は大きいと考えられる。

 

 ところで、「母の顔」をめぐっては、興味深いエピソードが伝えられている。それは1981年にパリのロダン美術館で佐藤忠良展が開催された際、ロダン美術館の館長が躊躇する作家に強く勧めて出品されることになり、展覧会開催中に、もっとも多く現地の雑誌や新聞に取り上げられて好評を博したのが、他ならぬこの1942年の「母の顔」であったというものである。

 

 この挿話で興味深いのは、フランスの批評家たちが、佐藤の初期作品の中では、むしろ地味な方に属する「母の顔」に注目した点だ。これと類似したことは、1983年、ニューヨーク・ウィルデンスタイン画廊での個展の際にもあったという。当時の辛口の展覧会批評記事であっても、「母の顔」に連なる「群馬の人」や「常磐の大工」に対しては、好意的な記述がなされたと伝えられている。

 

 これらの逸話は、佐藤作品が持つ普遍的な特質を考える際に留意すべき重要な問題を示唆している。また、このエピソードの背景には、ログンに代表されるフランス近代彫刻が、日本の風土や文化の中にどのように根をおろし、西洋の人々が評価しうるほどの普遍的な造形言語を獲得するに至ったかという、日本の近代彫刻全体にもつながる大きな問題がある。

 

 パリやニューヨークでの評価に関連することとしては、好意的に迎えられた作品が頭像であったこと、またそのモデルが典型的な日本人であったということなども考慮に入れる必要があろう。

 

 ところで、渡欧経験もない青年期の佐藤が、美術雑誌などを通じて得た西洋近代彫刻理解がどのようなものだったか興味深いところだが、フランス近代彫刻への憧憬を抱きながら、戦中戦後の厳しい状況の中で佐藤は母親や子どもたちを作品の題材として選ぶことになる。

 

 1940年代から50年代にかけての頭像の多作は、作家の内面的な必然性によるというより、混乱した状況下で大形作品が制作できなかったという外的制約が大きな要因であったけれども、結果的に家族や親しい友人をモデルとし、彫刻として制約の多い頭像を本格的な出発の時期に多作したことが、この彫刻家が内面的に深みのある表現を獲得する上で大きな役割を果たしたことは容易に想像できる。

 

 「母の顔」は、作為といったものがまったく感じられない、自身の母の顔をあるがままに表現した、まさに素朴な造形の作品である。ここでは、母親に寄せる深い愛情に裏打ちされた、手抜きのない丁寧な肉づけによる表現と作為の無さが眼目といえるだろう。かたく口を結び、真正面を見据えた表情は、モデルのひととなりを強く伝え、大きな存在感をそなえている。後年の作品に比べれば、肉づけにも整ったところはなく、むしろ更なる展開を予想させる彫刻といってもよいだろう。

 

 一方、やはりわが子をモデルとして、戦後制作された「オリエ」(1949年)や「たつろう」(1950年)では、古代の埴輪かモディリアーニの女性像を連想させるある種の様式化が眼裔の表現に行われている。また、全体のなめらかなモデリングにみられるように技術的な進展も認められる。

 

 私たち日本人の多くは、彫刻作品としての完成度は「母の顔」よりも「オリエ」「たつろう」、さらにはこの彫刻家の地歩を固めた「群馬の人」の方が高いと考えるだろう。しかし、フランスの人々はあえて「母の顔」を高く評価した。

 

 佐藤忠良の彫刻の基層にロダンに発する造形思考があることは、これまでも既に度々説かれてきた。しかし、完成された作品は、ロダンの単なる模倣ではない。そこでは、佐藤忠良その人の眼と手の働きが前面に押し出されている。しかも、モデルは、ごく普通の日本人である。フランスでの佐藤作品評価は、ロダン美術館で「母の顔」を見た人々が、そこにいわゆる移植文化ではないオリジナルな造形表現を認めたからに他ならない。

 

 佐藤忠良、舟越保武、柳原義達ら第二次大戦中から戦後にかけて、新制作派協会彫刻部を結成して、新たな具象彫刻の創造をめざした当時の若手作家たちは、1940年代を中心にその人となりまでも知り尽くした身近な人物をモデルする頭像を残した。それらの作品は、要所を押さえた堅実なモデリングによって人間存在の本質に迫ろうとする作者の意識を強く示し、モデルが日本人である故か、バタ臭さのない内実のある彫刻になっている。

 

 柳原や舟越らと同様、佐藤忠良もロダンに代表されるフランス近代彫刻に対して憧れにも近い気持ちを抱いていたが、「母の顔」を初めとする当時の彼の作品にロダンからの直接的な影響関係は見ることができない。様式化しようとする意識も認められず、技術的には未だ完成されていない感の強い40年代の作品は、結果として彫刻としてある種プリミティブな力を備えている。そのカが国を越えて見る者に訴えかける普遍的な造形言語を獲得する原動力となっていると見て、大きな誤りはないだろう。  

 

(もうりいちろう・学芸課長)

 

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