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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.41-50) > ニュー・ジェオメトリック・アートグループ、岩中徳次郎、その他─日本の幾何学的抽象をめぐる覚書2

ニュー・ジェオメトリック・アートグループ、岩中徳次郎、その他

 

─日本の幾何学的抽象をめぐる覚書Ⅱ

石崎勝基

 「当時、日本画壇には、アンフォルメルからポップアートにいたるまで現代美術の諸傾向が輸入されていたが、その多くはあいもかわらぬ個性信仰に根ざすフォーヴィックな情緒主義に支配され、かってのフォーヴィズムが、いかに根づよく日本人の感性に定着したかをものがたっていた」(1)。1964年から74年まで活動したニュー・ジェオメトリック・アート・グループ(2)はこうした状況に対し、「ジォメトリズムを基盤に」、「フォーブ的近代個性を排除して、現代個性の確立を行なう」(3)ことを主張した。

 

 日本近代の美術がフォーヴ的な傾向になじみながら、キュビスムや幾何学的抽象など構築的な意識にのっとった表現が根づかなかったとは、常套句といってよい。実際、いわゆる密室の絵画、アンフォルメル、反芸術、モノ派、モノ派以後といった戦後美術史の代表的とされる動きを見渡しても、幾何学的な形式は目だたない。もっとも皆無というわけでもないのだから(4)、先の引用も、宣言文のレトリックによる単純化ぐらいにとっておくべきだろう。ニュー・ジェオメトリック・アート・グループが活動した1960年代では、前半の反芸術的傾向や1968年以降のモノ派を横目に、1966年の『空間から環境へ』展(東京、銀座松屋)などで見られた、環境芸術、発注芸術、ライト・アートといった傾向が咲き乱れていた(5)。これらの多くは外見だけとれば、幾何学的と形容できる。戦後の経済成長と軌をあわせるように、都市化や機械化という形をまとった現代性の称揚が、現在からみれば批判的な視点をほとんど感じとれないためか、作品の多くに時代をこえた魅力は認めがたいにせよ、それが流行したのも事実である(6)。生理的効果を強調するオプ・アート的な傾向の比重が大きかったニュー・ジェオメトリック・アート・グループの活動も(7)、こうした流れと無縁ではあるまい。彼らが周囲の空気をどう意識していたかは不明だが、ヨシダ・ヨシエが物語る<時間派>同様(8)、ニュー・ジェオメトリック・アート・グループも、当時の繚乱に埋没したかっこうになっているといえるかもしれない。

 

 グループ発足の趣意にもどると、フォーヴに対するジォメトリズム、近代個性に対する現代個性(9)等と、二項対立で話がすすめられているが、意地悪な見方をすれば、それが単なるスタイルの交替以上にとらえられているかどうかは判然としない。宮川淳のいう、「単なる表現の次元をこえて、なによりも表現論の次元における断絶」(10)が意識されているかいなか。幾何学性は元来、画面という形式に対する反省的な意識と不可分だった。「知覚反応と心理作用との間に介在する極限の断層をつきとめるを目的とする」(11)との発言も、具体的にどのようなことが想定されているのかは不明だ。もっとも、表現論の次元での断絶を意識せざるをえないとしても、検証はもう一度表現の次元に送りかえす必要があるだろう。

 

 とはいえ、現在手もとにあるのはモノクロの図版を掲載したカタログ数冊と展覧会場の写真(fig.1-3)のみで、作品について云々するにはさらなる調査を待たねばならない。ただ、オプ・アート的な傾向が強い分、静物画式の構図を非具象の形態でおきかえただけという、いわゆる<日の丸空間>(12)には必ずしも縛られていない。また、シェイプト・キャンヴァスやプライマリー・ストラクチュア風の作品も認められる。アメリカでグループ展が開かれたおりには、「西洋の作家が効果を作りだすのに対し、日本人は詩情を作る。我々が攻撃的に目をゆさぶるのに、これら十二人の作家は微妙さを好む。西洋のオプが科学について語るとすれば、日本のオプが語るのは自然だ」(13)、「彼らの作品で目につく日本的伝統といえば、熟練と職人芸ぐらいだ」(14)、「もたらされた効果の内には、日本の民芸品と結びつけることができるように思われるものもある」(15)といった評がよせられた。しかしこれらも、紋切り型と読めなくはない。

 

 サンジェなどサロン・ド・メェ系の半抽象(fig.4-5)、アンフォルメルの摂取をへて、岩中徳次郎がニュー・ジェオメトリック・アート・グループに参加した時期のキネティツク・アート風の作品はしかし、「稚拙」(16)な「一つの試み」(17)にとどまる。岩中が固有の言語を見出すのは1970年代初め、タブローにもどってからであろう。ニュー・ジェオメトリック・アート・グループで大きな比重を占めていたオプ・アート的な作品も岩中に欠けているわけではなく、『Work76-33-B」(fig.6)などは、赤系と青系の対比から生じる生理的な効果が画面の縁を反復する帯状の分割と緊張して、岩中には珍しく画面の強さをしめしている。しかしこうした傾向は例外的なも甲で、一部の作品にシュプレマティズムやアルバースの思い出をうかがわせつつ、その多くは、交錯する色面の戯れを主な特徴とする。ニュー・ジェオメトリック・アート・グループの大勢が、多少ともオールオーヴァな平面の意識を前提にしていたのに比べれば、それらはある意味で、エルバンなど第二次大戦以前の抽象に近いとの印象を与えるかもしれない。ただ岩中の画面は、与えられた枠内に非具象的な形態を配置したものでもない。土田真紀と田中善明が指摘したように(18)、色面は何らかの分割線が交わった結果として成立するのだ。これを典型的にしめすのが、しばしば登場する大きな弧である。田中がのべるように、分割線が枠の外からもたらされることも少なくないが(19)、ただそれは、枠との緊張の内にあるというより、枠を顧慮せぬひろがりから切りとったものと映る。この点は統合性の弱さにもつながっている。

 

 もう一つの特徴は色の選び方だ。一部の作品をのぞき、モンドリアンやマレーヴィチのように白地が大きな役割をはたすことはない。暗めの色としての赤と黒に、明るい色が対比されるのだが、その際後者は必ず混色され、純度の高い輝きをおさえられる。モンドリアンやマレーヴィチにおいて、おそらく白紙還元(タプラ・ラサ)の隠喩でもあった自が、そこからひろがりが生まれだすような場所を保証していたのに比べると、岩中の交差する色面は、キヤンヴァスの上につどいくるように見える。ただ、紫系や黄土系および赤など輝きを殺した色は、手前へ出ようとはせず、塗りの平坦さゆえかえって、それらが覆いつくした平面の位置と緊張しえないことが少なくない。モンドリアンにおける格子の黒や、マレーヴィチの黒い形態ともことなる、岩中の黒も同様の機能をはたす。土田は「色面の前後関係を無化する役割を担っているのではなかろうか」(20)とのべているが、それが積極的な意味をもちえたのは、『曲交』(fig.7)のように、画面の縁と強く交渉させられた時であろう。

 

 いささか紋切り型でしめくくるなら、ニュー・ジェオメトリック・アートグループや岩中徳次郎の作業は、それらをどう評価するにせよ、歴史的事実である以上現在の埋没した状態から、日本における構築的な、いいかえて反省的な意識のひとつの現われとして、視野に組みこむ必要はあるはずだ。

 

(いしざきかつもと・学芸員)

 

作家別記事一覧:岩中徳次郎

1.「ニュー ジォメトリック アート グループ発足について」、「ニュージォメトリック アート グループ展」パンフレット、京都市美術館、1969。

 

2.グループの規約書(案)や須賀卯夫、「ニュー・ジェオメトリック・アート・グループ(グループ自身のためのPR (10))」(『美術手帖』、no.259、1965.11、 p,89)等では「ジェオメトリック」と、「ニュージォメトリック アート グループ発足について」(ibid.)等では「ジォメトリック」と表記されており、必ずしも統一されなかったようだが、ここでは 仮に、先行する前者にしたがっておく。

 

3.「ニュー ジォメトリック アート グループ発足について」、ibid.

 

4.cf.拙稿「日本の幾何学的抽象をめぐる覚書─四角はまるいかⅡ─」、『芸術学芸術史論集」(神戸大学文学部芸術学芸術史研究会)、no.5、1992.4。ただそこでは、戦前の抽象/1960年代前半のオノサト・トシノブ、山田正亮、桑山忠明/1970年代の<プラクティス>という見取図にブリミティヴ/クラシック/マニエリスムというフォシオンないしヴェルフリン風の図式が透けてしまい、覚書にとどめざるをえなかった。

 

5.cf.原栄三郎・藤枝晃雄・篠原有司男、『空間の論理 日本の現代美術』ブロンズ社、1969。

 

6.この他に峯村敏明が<主知主義>と呼ぶ、「トリックス・アンド・ヴィジョン」展(1968年、村松画廊・東京画廊)などに現われた傾向も、演繹的な外見をとることになる。cf.峯村、「解体と組織化の繰返し」、『みづゑ』、no.921、1981.12、 P.77-78。

 

7.Betsy Polier,‘Art and artists’Park East,January12,1967,William Wilson,‘Oriental op art on view in USC show’,Los Angels Times,January 27,1969.

 

8.ヨシダ・ヨシエ、「解体劇の幕降りて―60年代前衛美術史』、造形社、1982、P.83-93。

 

9.「徹底した非個性の中から生まれるクールな個性表現」、須賀、ibid.

 

10.宮川淳、「アンフォルメル以後」、『美術手帖』、no.220、1963.5、P.94。

 

11.須賀、ibid.

 

12.藤枝晃雄、「美術季評」、『季刊藝術』、no.27、1973 秋、P.19など。

 

13.W.Wilson,ibid.

 

14.E.M.Polley,‘New Geometric Art Of Japan is international in essence’,Sunday Times-herald,May19,1968.

 

15. Cecile N.McCann,‘Major group show at Lind Gallery’,West Art,vol.Ⅳ no.17,May1968.

 

16.白仁成昭、「誤読の網は解きほぐさねば new geometric art group展(ミセラニイ)」、『建築』、1966.6、P.9。

 

17.岩中徳次郎、「(コメント)」、『岩中徳次郎作品展』リーフレット、画廊クリスタル、1965.10。

 

18.土田真紀、「岩中徳次郎―『近代絵画』の追求―」、『岩中徳次郎展』カタログ、三重県立美術館、1994、P.9、田中善明、「岩中徳次郎の抽象画の成立とその使命」、同カタログ、P.15-16。

 

19.田中、ibid.

 

20.土田、ibid.、P.11。

 
fig.1 ニュー・ジェオメトリック・アート・グループ展会場 1966年6月 京都市美術館

fig.1 ニュー・ジェオメトリック・アート・グループ展会場 1966年6月 京都市美術館

 

fig.2 同 1968年12月 東京セントラル美術館

fig.2 同 1968年12月 東京セントラル美術館

 

fig.3 1969年9月 京都市美術館

fig.3 1969年9月 京都市美術館

 

fig.4ギュスターヴ・サンジェ 漁夫の祭 1951年(『みづゑ』no.561、1952.5、p.40 掲載)

fig.4 ギュスターヴ・サンジェ 漁夫の祭 1951年(『みづゑ』no.561、1952.5、p.40 掲載)

 

fig.5 岩中徳次郎「港」1956年

fig.5 岩中徳次郎「港」1956年

 

fig.6 岩中徳次郎「Work 76-33-B」1976年(1986年拡大写)

fig.6 岩中徳次郎「Work 76-33-B」1976年(1986年拡大写)

 

fig.7 岩中徳次郎「曲交」

fig.7 岩中徳次郎「曲交」1982年

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