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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.41-50) > ひる・ういんど 第45号 黒衣の系譜 クールベ、マネそしてエミール・ベルナール

黒衣の系譜 クールベ、マネそしてエミール・ベルナール

稲賀繁美

 

 フランス十九世紀後半の三つの作品を比較したい。まずはギュスターヴ・クールベの≪オルナンにおけるある埋葬の歴史画≫(1850:パリ、オルセー美術館)、ふたつはエドゥワール・マネの≪オペラ座の仮面舞踏会≫(1873-4:ワシントン、ナショナル・ギャラリー)そして最後にはエミール・ベルナールの ≪ヴァン・ゴッホの埋葬≫(1893:個人蔵)。画家たちが意図的にそうしたかどうかについて確証はないものの、ほぼ20年の間隔をおいて制作されたこれらの三作品は、いずれも先行作を十分に意識していながら、それゆえに先行作を裏切る歴史的な役割を担っているように思われる。

 

黒装の反復

 いささか唐突な比較に見えるが、これらの作品を並べると、いずれも登場人物の群像が画面に平行して横長に反復して現れているのは明らかだ。画家の出身地、スイス国境に近い山村オルナンでの無名の女性(?)の埋葬に参列するこれまた無名の男女の群像(図2)。オペラ座での燕尾服とシルクハットの反復が織り成す無名性とそのあいだに闖入してけばけばしい役割を、実際の場面でもまた画面における色彩効果としてもあげている娼婦たちのいる情景。そして夕刻故だろうか、顔より下の部分が影になって、顔面だけが傾いた日光に照らしだされた、これまた誰とは確認出来ない、横一列の群像。

 

 これら三つの作品に共通する、いかにも異様な画面構成原理は、まさにこの黒い衣装をまとった人物たちの水平線上の反復である。そしてこの反復の効果の異様さを高めているのが、黒という色彩ならざる物質性であることも否定しがたい(図3)。無論印象派を念頭に置けば、美術の近代を彩るのが黒であったといっては反語にも聞こえよう。だがもはやギリシャ・ローマ神話の半神でもナポレオン戦争の歴史上の英雄でもない、ありきたりの群衆が主人公として画面に登場したのが、近代の符牒だったとすれば、かれらの「制服」である燕尾服が、新しい「美」の符牒であっていけない理由があろうか。

 

 「さんざんなぶりものにされてきた、この燕尾服も、その美しさを、固有の 魅力をもっていはしないだろうか。それはわれらの悩める時代、痩せた黒い肩の上にまでいつも変らぬ喪の象徴を荷っている時代の、必要な衣服ではないのか。黒いフロックコートは、普遍的な平等の表現という、その政治的な美しさをもつだけでなく、公衆の魂の表現という、その詩的な美しさをもつことに、 篤(とく)と留意していただきたい。一葬儀人夫のはてしない行列、政治の葬儀人夫、恋する葬儀人夫、ブルジョワ葬儀人夫。われらはみな何らかの葬儀を執り行いつつあるのだ」(1)

 

 ボードレールが一八四六年のサロンに綴ったこの宣言がクールベの≪埋葬≫(図1)の発想源ではなかったか、との卓抜な仮説を提出したのは阿部良雄氏であったが、このフロックコートは普仏戦争の敗北以来、フランスにおいては 国民的な「喪」の印となり、ブルジョワを含めた公衆日常の「制服」として定着してゆく。その正装で遂行される醜悪な行事に挑んで絵画の「現代」を敷延したのが、写実主義者クールベの次の世代を代表するマネであり、またその「大胆さ」を巧みに見抜いたのが、ボードレールの衣鉢を継いだ詩人マラルメだった、というのでは、いささか話がうますぎようか(図5)。「燕尾服と黒仮装服(ドミノ)、帽子と目隠し、ビロード、ラシャ、サテンと絹。仮装によって加えられた生き生きとした色どりの必要性というものに、眼は辛うじて気が付くか気が付かぬかだ──眼がそれらの色どりを識別するのは、まずほとんど排他的に男からの み成り立っている一群の作り出す厳粛で調和のとれた色彩、それだけの魅力に惹きつけられ引き留められたが故でしかない。」(2)

図1ギュスターヴ・クールベ《オルナンにおけるある埋葬の歴史画》。

図1ギュスターヴ・クールベ《オルナンにおけるある埋葬の歴史画》。1850年、キャンヴァスに油彩、3.15x6.68cm、パリ・オルセー美術館(部分)

 

図2ギュスターヴ・クールベ《オルナンにおけるある埋葬》、紙にフュザン、

図2ギュスターヴ・クールベ《オルナンにおけるある埋葬》、紙にフュザン、0.37x0.95cm、ブザンソン美術館

 

図3ベルタルによる《埋葬》のカリカチュア

図3ベルタルによる《埋葬》のカリカチュア

 

(1)ボードレール、「一八四六年のサロン」、ここでは阿部良雄、『群衆のなかの芸術家』、中央文庫、140-41頁より引用。

図4エピナルの民衆版画、《人生の階梯》、フランス19世紀前半

図4エピナルの民衆版画、《人生の階梯》、フランス19世紀前半

 

図5エドゥワール・マネ《オペラ座の仮面舞踏会》、1873-4年、キャンヴァスに油彩、0.60x0.73cm、ワシントン、ナショナル・ギャラリー

図5エドゥワール・マネ《オペラ座の仮面舞踏会》、1873-4年、キャンヴァスに油彩、0.60x0.73cm、ワシントン、ナショナル・ギャラリー

 

(2)マラルメ、「印象主義者たちとマネ」、『月刊批評』、1876、(英文のみ現存)。ここでは阿部同上書241頁より引用。

埋葬の芸術、芸術の埋葬

 クールベの作品は縦3.15m、横6.68mという巨大な作品である。画中の登場 人物たちはほぼ実物大。これは当時にあっては、ひろく認知された神々や英雄を描く「歴史画=物語絵画 peinture d’histoire」という絵画の最高位の範疇にのみ容認された寸法だった。ところがクールベは「ある埋葬」といういわば日常的な風景を、この特権的な領域に導入する。そればかりか、クールベがこの画面の下敷きとして「人生の階梯」を描いた民衆版画を流用していたことも判明している(3)(図4)。だが、ティモシー・クラークもつとに指摘するとおり、クールベはなにも当時息切れの見えた高級「大芸術」を立て直そうとして、そこに低級民衆芸術によるカンフル注射を試みたわけではなかった(4)。それどころか、クールベは民衆芸術を拠り所として、大芸術の根拠を掘り崩す「革命」を意図していた。共和主義の平等思想によって大芸術を「埋葬」してしまう意図は、画面におけるカトリック司祭とフランス大革命加担者との和解のみならず、上下関係の階層秩序や伝統的な遠近法を無視した構図ならざる構図の、徹底した平板さ=平等さにおいても実現されている。

 

 つづくマネの位相にあっては、大芸術という特権的範疇への侵犯がもはや二番煎じでしかない以上、主題の下劣さを美術へと昇華する身振りのいかがわしさがスキャンダルを呼ぶ。顰蹙をかってしかるべき場面──娼婦の居る仮面舞踏会──を題材に選びながら、そこに「油絵という芸術から引き出された純粋な手段によって、同時代の世界のいかなる視像をも画面の上に成り立たせようという、高貴な企て」を見て取ったマラルメの逆説的言辞には、ボードレールの英雄主義を脱した芸術至上主義が読み取られる。

 

 ヴァン・ゴッホは、緑と赤の対比にも匹敵する色彩効果を浮世絵(=日本の民衆版画)は白黒の対比によって実現した、と言う(5)。だがそのゴッホの埋葬と称する絵をものした「弟子」のベルナールは(図6)、皮肉にもこの先、師の原色を誤謬として断罪し、黒色の陰影表現の復権を唱え、フランス古典主義へと伝統回帰する(6)。以降埋葬の芸術は皮肉にも芸術の埋葬へと転じてゆく(7)

 

(いながしげみ・三重大学人文学部助教授)

図6エミール・ベルナール《ヴァン・ゴッホの埋葬》、1893年の年記、キャンヴァスに油彩、0.73x0.93cm、個人蔵

図6エミール・ベルナール《ヴァン・ゴッホの埋葬》、1893年の年記、キャンヴァスに油彩、0.73x0.93cm、個人蔵

 

(3)Mayer Chapiro,“Courbet and Popular Imagery”,Journal of the Warburg and Courtauld Institutes,IV,1940-41,pp.164-191.

 

(4)cf.Charles Rosen,Henri Zerner,“L'antichambre du Louvre ou I’idéologie du fini ”,Critique,octobre No.329,1974,p.870

 

(5)ゴッホの手紙,エミール・ベルナール宛No.6

 

(6)Emile Bernard,L'Ésthétique fondamentale et traditionelle d'après les maîtres de tous les temps,1910.

 

(7)拙稿「19世紀フランス絵画とその外部」、『芸術の近代-講座20世紀の芸術』、岩波書店、1990 p.154.

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