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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.31-40) > ひる・ういんど 第40号 ペーミの国からきた美術

ペーミの国からきた美術

東 俊郎

 

倭名抄にはハミ、俗或呼為反鼻、其音反尾と註したり、さらば古にはハバ

といひ、後にはオロチといひしを、又後にはヘミともヘビとも云ひしなり

新井白石『東雅』

 

 いまはもうめったに耳にしなくなったけれど、「東方礼儀之國」といういいかたがあった。残念ながら日本のことではない。かつて中國を北斗としてそのまわりを世界がまわっていたころの儒教文化の、いちばんの優等生だった李氏朝鮮をさして中華のひとが呼んだのとひとしく、又朝鮮のひとがみずからを誇ったことばでもあった。君に忠よりは親に孝、イスラム教に似て、日常のすみずみまで儀礼/規律のネットワークをはりめぐらそうとする生活の一大マニュアルこそ儒教であるとき、ごく一部の階級の生活の、そのまた一部を飾りはしても、不断につづく常民のくらしまではその影響がおよばなかった日本は、おおきくみれば中華の文明圏に属していたとしても、ぼくがみても、治国と斉家と修身をつらぬく宇宙のエネルギーを言動のよりどころとした儒教の国とはとうていいいがたいし、まちがっても「礼儀之國」なんかではなかった。ひとに馴らされることのない島国の野そだちのエネルギー。ひとくちにいえば、こどもっぽい。たぶん江戸の儒教者たちもなんとなくそのことに気づいていたのだろう。だから朝鮮の学者にたいして一目おいていたけはいがあるのは、たんに知的な水準だけのもんだいではなかったはずだ。かりものを着ているやましさの分だけ、逆に隣国へむけた尊敬はふかかった。

 

 ところで、そういう礼儀のじゃまがなかったから、もとのはだかにかえって、西欧をまねることすばやく、その近代化をすすめた日本が、こっちのほうでみるまに優等生になったのは本当に皮肉なことだ。しあわせか不幸かしらない。あたらしい日本がふるい日本をすてる勢いにまかせて、だいじなたくさんのものといっしょに東アジアも又まるごとすててしまった。すてるしかなかったのかといまになっては疑うが、ともかくその火事場のどたばたの、気がつけば、それまで「東方礼儀之國」を尊敬していたその分だけ、あっさりと誤解や無視や軽蔑にむかって裏がえってしまった。

 

 それは政治その他のはなしで、文化や藝術はそうじゃないといえればよかったが、そういうわけにはいかない。根のつながるいたるところにいづれ連関の波がおよんでゆく。たとえば柳宗悦のしごとがそうである。いったい柳というひとには、ものをみるにさきだって無形の思想がまづあり、みえるものをその輪郭でつつんでかたちをととのえる、そういう頭の領分がいがいとつよい。だから思いこみもはたらく。朝鮮民族のつくりだした藝術作品、とりわけ李朝を象徴する色といえばまづ白だとして、その白につつまれるところになによりも嘆きと悲哀をみてとった柳の感受性は、或は一面的すぎたり感傷的すぎたとしても、それでもじゅうぶん鋭かった。そこに眼をふさいで柳の功罪をいうのはかんたんだ。この島国から朝鮮をみる視線が偏見だらけだったとき、浅川伯教巧兄弟というすばらしい先達がいたとはいえ、呑みこみはやく、たちまち李朝のすばらしさをみとめ、信じたことそのままをかたってのけたのは一種の勇気である。かれの凄さはこの勇気にあったのでは他ではない。そして、そういう柳でさえ時代に抗しつつその空気からまったく自由ではなかったということは、ほんとうはいう必要さえない。。

 

 だから柳ほど思想にいのちをかけず、ただしやきものの目利きとしては天才的だった感覚のひと青山二郎が、ぢかに李朝にふれて、まちがいなく楽しむことを知っていたその感受性の閾を一歩こえると、とたんに、「東洋文化と云ふものの性質から云ふと、朝鮮は純然たる支那文化の模倣であって、本質的には純粋に朝鮮のものと言へるものは一つもない。」とか、「朝鮮と云ふのは詠嘆的でかぼそくっておどおどとした、そして根は懶け者で極く人が良いのです。早く言へば女の子です。」などと口ばしる、その切れ味の鈍さはこれが時代の空気が日本の古陶への愛におぼれたかれにささやいた声なき声だったと、みればみえる。青山にとって朝鮮は、中国と日本の橋わたしをする媒介にしかみえなかったのだ。かれは「意味」のひとではない。ものに親しむそのときが至福に輝けばそれでよかったので、その幸福をことばでひとに分かとうなどとは考えていないという意味でのhappy fewだといえよう。それにくらべて浅川伯教・巧兄弟はまったくちがっていた。かれらののこした仕事はもっと知られていいので、たとえばその当時、高麗青磁にくらべて不当に評価のひくかった李朝白磁の、つよさを内にふくんだまろやかな味を柳宗悦におしえたのは、だれでもなく、浅川伯教だったけれど、その浅川伯教は焼物だけでなくて民画などにも目くばりひろく、十八世紀の画人申潤福について

 
朝鮮の自然を見つめた処から生れた画で、支那の模倣でなく全く朝鮮の感覚を描出した処、前後にない朝鮮独歩の風俗画師だと思ふ。*
*高橋宗司『朝鮮の土となった日本人』 p.46、草風館、1982年

 といっている。それなら、かれがみいだした李朝自磁のうつくしさの源をさぐったときにも、それを青山のように中国をまねたとか、「詠嘆的でかぼそくっておどおどした」ものとは絶対にうけとっていないはずなので、絵かきがそうであったように、焼物もまた陶工が、さりげなく、しかしやさしく朝鮮の風土をみつめた経験の集積として、他のどこでもなくそこでしかないその風土の刻印をあざやかに帯びているとするなら、そこには模倣をこえて自立した感覚がいきているにちがいないと伯教がかんがえていたというのは、とても自然である。そういう人だからその目もくもっていなくて、悲哀にみちた朝鮮という柳宗悦の頭にふくれあがった民族観にとらわれず、むしろそのはんたいの楽天性と、どんなことがあっても生きのびてゆくそのたくましさに素直に驚くことができた。

 

 もっとも柳のためにすこし弁護したほうがいいかもしれない。みずからかたったその悲哀の美という観念から柳が脱けだしつつあったとき、皮肉にもそれは朝鮮をかたる手がかりとして、固定し歪められた柳の権威のもとに世間へひろまってしまったあげく、むしろ柳以外のだれもが悲哀の眼でしか朝鮮をみなくなった、ともいえる。

 

 戦争をへて半世紀の現在この空気はかわったし、まだまだかわらなくてはならない。柳宗悦がいった「美しく長く長く引く朝鮮の線」にしても、ためいきに似ているどころか腰もつよく骨もふとく、虎をえがいた民画はふてぶてしくユーモラスだし、つかわれかたを気にしすぎる日本のやきものとくらべて、無頓着そうでその奥に温もりがかよう。その半島出来のものは、泣きたいときには思いっきり泣いていても、無理に涙をこらえる風情のものよりセンチメンタルじゃなくて乾いていると、だれかが青山や柳にいえば、いまなら、そうか、そうだったかといってくれそうな気がする。それでやっとはなしが現代美術につながるのだが紙数がつきた。あとは後日に期したい。

 

(ひがししゅんろう・学芸員)

 

作家別記事一覧:柳宗悦

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