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研究ノート

長原孝太郎の朝鮮

東俊郎

 

三重県立美術館に収蔵されている一枚のデッサンがある。長原孝太郎えがくところのペン画『朝鮮の人』(1892)。みればただちに、これが西洋画のきまじめなレッスンではなくて、もっと肩のこらない風俗画というか、風刺的な漫画とよんでおかしくない、はしりがき風のくだけた作品だとわかる。ほとんど即興にちかい。平安時代のお公家さんのような装束をまとった二人の男が背をむけて歩みさっていこうとしている。はんたいからやってきた五人づれのはじめの男たちがそれとすれちがった、そのすぐ後で、一方がふりかえって、合方に、奇異なものをみてしまったかのようにささやく。

 

 

 ぜんたいドーミエ或はビゴーをでもみているみたいに、なんとなく滑稽な味がのこるが、或るとき、画面左上の「長原」というサインの横のローマ字が「Chosen jin!!」と読めるのにふと気がつくとたん、そうかこれこそ、着物の尻をはしょって洋傘を杖のかわりにした、垢ぬけないかっこうの、その指さす男の口からもれた言葉だったのだと知れる。それがわかればあとはかんたんで、いってみれは、白昼メ然とあるく見なれない風体の男たちに出会ったひとりの男が、たったいまみたものを、あれは朝鮮の人だねとやさしく噂するのではなく、又洒落をかんがえてる暇もなく、もっと固ばった声のうちに侮辱のニュアンスをまじえて、みろよ朝鮮人だぜとかたった図なのである。

 

 とはいえ、これではまだ絵を読んだことになっていない。これは、いかにも明治生まれの男らしく、脱亜入欧であたまがいっぱいの画家の、無邪気な帝国主義と愛国主義がはからずもあらわに透けてみえる作品であって、ただ、朝鮮風の衣装を長原があまり知らなかったから、ありあわせのイメージをつないだあげく、なんだか神主みたいになってしまった──などと単純にかんがえようとしても、うまくいかない。なにかがちがう。だいいち、ひらけた頭脳のもちぬしだった森鴎外や、朝鮮の風土の光をイタリアとともに愛した偏見のない藝術家の眼でもって『花籠』とか『朝鮮風景』をえがいた藤島武二の、また原田直次郎の親しい友人であり、たしか鴎外の娘森莱苅のエッセイでよんだことがある懐かしい止水先生長原の、直情であっても柔軟な風貌からは、そんな山県有朋みたいな偏狭な思想のきれはしさえ、ほくにはぜったいに想像できないし、したくもない以上、もっと別の読みかたをさがさなくてはならないのだが、ここまででは、その糸口がみつかっていない。どこかちがうという違和のかんじの核をのこして、しばらくはこの絵のことはまったくわすれてしまっていた。

 

 おもいがけないときに不意打ちがやってくる。あるとき、なにかの本をよんでいたら、岡倉天心のはなしがでている。なにかというと、天心が東京美術学校の校長になって、みずから職員生徒の制服をかんがえた。日本のよさをみなおそうとするかれの抱負がここにも及んだのはいいとしても、ただちょっとやりすぎて、それが温古よりも復古、はるか奈良平安の朝廷風へとびこえたみたいな奇妙な制服になってしまったというはなしで、それなら、いまもんだいのそのデッサンとただちにむすびつく。そうか、あの不思議な身なりのふたりの男は、半島の国のひとなんかではなくて、ほんとうは美術学校の学生だったんだ。その左のひとりが小脇にかかえた板状のものも、それならスケッチブックにちがいない。もっということもできる。背景に木立がみえるこの場所は、ほかでもなくいまの上野公園あたりの森だし、さらによくみると、ギリシア風の円柱と窓がいっぼんの輪郭だけでしめされた建物がみえる。アーチの弧線もあるその建物はそれなら美術学校か、それともコンドルの設計した博物館のどちらかではないか、などなど。

 

 それはともかく、はなしをもどすと、当時の眼からみてもこの制服はふつうの神経ではなかったし、それなら着ているほうだって、青年客気をみせるか、傍若無人をよそおうか、もっと素直に気どっていたか、いづれにしても、こんな恰好であるいてめだたないはずがない。かれらが通ったあとは、きっと、寸鉄人を刺すものからトンチンカンまで、或いはひそひそと、さまざまな「批評」が飛びかったにちがいないのである。美術学校の事情に通じていて、天心の国粋的なしごとにむしろ批判的だった長原には、そのことがよくみえていた。長原の風刺の種はまづそこにあったのだ。

 

 最大の弱点をあばくのにいちばん卑小なことをもってする。ようするにわらうこともできない衣装の愚かしさをわらいのめして、洋画を排斥することがじつは日本画の可能性をかえってせばめることに気がつかない美術学校、もっといえば岡倉天心の「思想」へのやんわりとした抗議となった。或いはみかけよりもっとこの風刺は痛烈かもしれない。人間が猿をわらうより、猿に人間をわらわせたほうが、からかわれたほうの滑稽さはいっそうつよまる、というのはカリカチェアの原則である。この無言の民衆の眼のいくらかは、当然長原のそれでもあったはずだ。もっとも、そうはいっても、いまどきのだれかとはちがって、長原は自分が庶民のひとりだとか、大衆の味方といった歯の浮いたことはいわない。ここがだいじだ。そこで天心をからかってみせたそのおなじ「ChoSen jin!!」ということばの、そのかえす刀で、こんどは明治政府の臣民たちの無意識の優越を切ってすてる、まではいかなくとも鋭くえぐりだしている。

 

 江戸から明治にうつるあいだ、いつのまにか、うつくしいイメージと響きをもった朝鮮ということばの語感が、どうやら逆転してしまった気配なのである。もっとべつにいえば新井白石のなかの「日本」と西郷隆盛の「日本」はおなじでなかった。「日本」の膨張に応じて、親しく懐かしい文明の国から征緯論の対象へと朝鮮はちいさくなる。民衆じしんが、一衣帯水のむこうにもおなじような暮しがあることを忘れてしまった。ここでもういちど長原の作品をおもいだそう。画面左上に「廿五・七」という日付があった。かれがこの風刺画をかいた二年後に、半島を舞台にし、日清露の役者をそろえた悲劇の第一幕、すなわち日清戦争がはじまったことを、ぼくらは知っている。ということは、明治25年のこととして、すでに政府が捏造した、ちいさな朝鮮像がみごとに流通していたということが、たった一枚の絵からもあざやかに想像できるということだ。

 

 大山ならぬ成田参りからもどった五人の同行にしのびこんだ無意識の怪物の影。それが美術学校の制服をみるとたちまち「Chosen jin!!」という野獣も同様の叫びの姿をとった。長原はじっさいこの情景をじっさいにみたかもしれない。そうじゃないかもしれない。もっとも筆をとるまえに、すでにながい熟考があったことは、できばえからたしかだし、いづれにしても、絵による社会批評をだいじなしごとと考えていた長原の、これはもっとも冴えた表現となって、傍観者でありえぬ長原のあつき思いとともにいまもいきている。あと半世紀はつづく一国の雰囲気を辛辣に、ユーモアをもってとらえつつ、しっぽをつかまえさせずに抵抗する。深い霧をはらすことはできないが、霧の正体に光をあてる。ふりかえって、風俗に材をとった風刺画のジャンルこそ、かれがのびのびと筆のふるえる最良のフィールドだったのかもしれない。ところで、この作品の題名は「朝鮮の人」となっているが、こんな題を長原が気にいっていたとはぼくにはおもえない。たとえば「美術学校の生徒」とでも改めたほうがわかりやすくなる。 

 

(ひがししゅんろう・学芸員)

 

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長原孝太郎「朝鮮の人」

長原孝太郎「朝鮮の人」

 

岡倉天心

 

 

東京美術学校校長就任当時の天心(上)と、東京美術学校第一回前期卒業生と職員(下)。洋装は前列中央の文部次官牧野伸顕の他一名のみ

東京美術学校校長就任当時の天心(上)と、東京美術学校第一回前期卒業生と職員(下)。洋装は前列中央の文部次官牧野伸顕の他一名のみ。

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