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研究ノート

前田寛治とクールベ、アングル、そしてファン・ゴッホ

中谷伸生

 

 前田寛治の作品には、面と塊量を誇示する「J・C嬢の像」(1925年)、あるいは、顫える繊細な線描を用いた「棟梁の家族」(1928年)など、いくつかの異なる作風が見い出される。後者においては、人物の衣服や、テーブルの表面の形態モティーフが、肉太で、なおかつ無数の軟らかい平行線の効果によって、温もりのある表現を獲得している。いわゆるハッチングにも似たその線描の筆触は、一面において、素朴な形態の魅力を露にする。こうした線描は、この画家の様式特徴とでもいうべき、豊かな表現性を露にするものである。

 

 鳥取県出身の前田寛治は、1922年に渡仏して、新古典主義の画家アングル、あるいは19世紀フランス美術史の高峰マネやセザンヌに関心を抱きつつ、クールベの写実主義絵画に傾倒した。前田が、社会主義者プルードンの肖像を描いたクールベに惹かれたのは、昭和前期におけるマルクス主義思想の理論的指導者で、同郷の福本和夫(1894−1983)の感化による。前田とは中学時代に同窓であった福本は、前田がパリに滞在していた時期の1921年から24年にかけて、文部省在外研究員としてフランスで学んでいた。この時期、前田は毎晩のように、福本から唯物史観などの理論を聞かされて、おそらく、芸術活動と政治的イデオロギーとの狭間で煩悶していたにちがいない。数年後の1927年に上梓された前田の著書『クルベエ』(アルス美術叢書)の序文に、前田は次のように記している。「クルベエの作品は、十九世紀の繪傑作のうちで私の最も感銘してゐるものである。加ふるに彼の燃える様な熱情と頑強な意志とを以て生活を貫き、遂にラ・コンミュンの一員として革命に参加し、捕へられて獄中に餘生を送るに至つた生涯を知るに及んでは、一人厳粛な気持ちで彼を眺めずには居られない。今私が彼の藝術を吟味し、彼の生活を記録しようとするのは、それを讀者に傳へると云ふよりも、私自身にその美と力とを吸収する為にと云ふ方がより適當である」。この序文は、芸術と思想の両面にわたるクールベに対する前田の敬愛の念を明らかにしている。「メーデー」(1924年)や「労働者」(1924年頃)といった、思想的内容の色濃い作品は、社会主義思想に関心をもった前田の立場を鮮明に示すものであろう。しかし、こうしかわば社会派の絵画は、必ずしも成功しているとはいえず、そこに画家の揺れ動く気持ちの反映が見られるのを見逃してはならない。やがて前田が、アングルに傾倒して、稀にみる質の高い裸婦や肖像画の大作を次々に制作したのも、社会主義の理論と画家としての眼、すなわちイデオロギーと美意識とが、微妙に分裂していたことを証明する裏付けとなるかも知れない。芸術に関しても、政治に関しても、この画家は、常に内部に矛盾をはらみつつ、生産を歩んだようである。このような前田の作風展開の中で、その位置づけが、意外に難しいのが、ファン・ゴッホの影響を受けた作品であろう。

 

 さて、前田の絵画が、顕著にファン・ゴッホ風の特徴を見せたのは1921年のことである。とりわけ、「ダリヤ」(1921年)、「メーデー」(1924年)、「労働者」(1924年)などは、ファン・ゴッホの影響を明白に示す作品である。1922年12月29日、前田は横浜港から客船でフランスヘ出発し、翌1923年2月8日にマルセイユに到着した。前田が執筆した「ヴラマンク訪問記」(『中央美術』9−8)には、この年の6月に、里見勝蔵に連れられてオーヴェル村へ行き、ファン・ゴッホの墓へと向かったくだりが見出される。帰宅後、すぐに制作にかかったのが、「ゴッホの墓」(1923年)だという。つまり、前田は、渡仏する以前からファン・ゴッホに関心を抱いており、フランス到着後すぐに、この敬愛する画家の墓を訪ねている。墓地に立った前田は、次のような回想を遺している。「その青々とした小さい草地の奥に二尺四方くらいの薄い灰色の安山岩を切り取った墓標が二つ竝べられてある。これが狂人天才画家のゴッホと、内気な一商人だった弟のテオドルの為に残された記念碑であった。(中略)再びうつむいた時には瞼の底が熱して地上の形を判然とさせることが出来なかった。自分は今急激にゴッホの狂気を感受したま、何時まで経っても覚めることが出来ないのではなかろうか。」(前田寛治「滞仏中の思い出−ゴッホの墓−」、『美術新論』36、昭和3年6月)。前田の油彩画「ゴッホの墓」(1923年)は、そうしたファン・ゴッホ詣での証しである。1920年代から30年代の日本におけるファン・ゴッホの影響は、前田寛治や靉光(1907−1946)、あるいは小林徳三郎らの作品に見てとれるが、この時期の前田の作品で、最も直截にファン・ゴッホの影響を受けた絵画は、「ダリヤ」であろう。力強くて短い無数の筆触が、画面のあらゆる箇所を埋め尽くしているが、黄色いダリヤの花と緑の葉の描写は、とりわけファン・ゴッホの描き方に酷似している。描かれた花瓶の表面には,“Vincent”の文字が見られ、前田がファン・ゴッホに深く心酔していたことが窺える。ファン・ゴッホの影響を示す資料としては、一枚の紙片に、四人の労働者を描いた「労働者四態」(1924年)や、横向きの農民の姿を二点スケッチした「男の像」(1921年頃)などの素描が挙げられる。先に挙げた、いかにもファン・ゴッホ風の様式を示す「労働者」や「ダリヤ」などは別にして、他の多くの作品を観察してみると、ファン・ゴッホの筆触に着想を得て展開したと推測される<肉太の軟らかい平行線>が、しばしば用いられていることに気づかされる。この形態モティーフは、大正期の「花と子供等」、「家族」(1923年)、「メーデー」、「赤い風景」(1925年)、そして昭和期の「大工」(1927年)、「横臥裸婦」(1928年)、加えて、神奈川県立近代美術館所蔵の「裸婦」(1928年)や「棟梁の家族」など、前田の初期から晩期までを貫く重要な形態モティーフである。いうまでもなく、昭和に入っては、このモティーフが、ファン・ゴッホの様式を咀嚼しつつも、すでに、その直接の影響を脱して、独自の線描表現に変貌していることを見逃してはならない。岸田劉生や萬鐵五郎らの大正初期の作品が、ファン・ゴッホの影響を明白に示したにもかかわらず、その後は、完全にファン・ゴッホ風の作品と無縁になったことを想起すべきである。前田の場合、それとは基本的に異なっているといえよう。図式化した言い方だが、おそらく、前田は、社会および政治思想を踏まえた絵画の理念としては、クールベに惹かれ、様式の問題としては、完璧な洗練の極致というべき画面を確立したアングルに最も惹かれたにちがいない。そして、画家としての本能的な手仕事あるいは心性の問題としては、ファン・ゴッホの筆触をはじめその作風に、深く、しかも間歇的に長年月にわたって魅了され続けたものと推測される。クールベ、アングル、そしてファン・ゴッホという、かなり性格の異なる画家たちの作品に傾倒した前田の絵画は、いうまでもなく、これらの画家の作風の懸隔に比例して、大きな振幅を示している、と解されるであろう。そしてその振幅の大きさとそれを総合しようとした不屈の努力こそが、昭和前期の画家たちの中にあって、前田の存在をひと際輝かしいものにしている要因のひとつである。なかんずく、ファン・ゴッホの影響は、前田の絵画の中に、あくまでも静かに、そして深く、持続的に沈潜した重要な要素だと考えられる。前田独自の軟らかい平行線による筆触が、そのことを証明しているといえないであろうか。

 

 「裸婦」(神奈川県立近代美術館所蔵)や「棟梁の家族」の画面では、顫えるような、あるいは燃え上がるような筆触が、実に印象的である。この軟らかくて、ある種の土臭い雰囲気を漂わす表現が、前田の本領であることは、まずまちがいない。私には、ことした線描、あるいは形態の特質が、「ダリヤ」や「メーデー」に見られる、ファン・ゴッホ風の太く短い無数の筆触の豊かな展開であると思われてならないのである。

 

(なかたに のぶお・学芸課長)

 

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棟梁の家族(部分)1928

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労働者(部分)1924頃

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メーデー(部分)1924

メーデー(部分)1924

 

裸婦(部分)1928

裸婦(部分)1928

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