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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.31-40) > ひる・ういんど 第33号 鹿子木孟郎「教会」

鹿子木孟郎「教会」

1917年

油彩・カンヴァス

 

63.5x48.5㎝

 

KANOKOGI Takeshiro(-) // Church // 1917 // Oil on canvas

 

 「茲に只一人其のアカデミックの城地を固守する老将軍あり。ジャンポールローラン氏其人なり、ローランの名は不折氏、鹿子木氏に依りて我等が耳に親し。彼は今も尚十年二十年の昔の如く、竪硬なるデッサンと、定義的なる色彩とを用ひつつあり。大正の三年に結髪の儒者を見るが如し、一種の敬意なき能はず。」とかいたのは、1913年(大正2)にフランスを中心に洋行した小杉放庵である。この不折とは正岡子規が「折れ曲がり折れ曲がりたる路地の奥に折れずといへる画家はすみけり」とうたった中村不折であり、そして鹿子木はもちろん、みずからを不倒山人とよんだ鹿子木孟郎だった。折れずといい、倒れずという。そこにはなんとなく鬱屈しがちの謀反の気配がこもっているようにきこえる。

 

 1848年パリでアカデミー・ジュリアンがひらかれた。この画塾は当時の画家の登龍門であったアカデミーに準ずる内容と権威をもつ、いわばアカデミーの予備校だったから、そこで歴史画の大家ジャン=ポール・ローランスに学んだ鹿子木孟郎には、おおげさではなくて、十七世紀のルイ十四世の時代以来つづくアカデミズムのかがやかしい伝統につながるものとしての自負が多分にあったようだ。正史をつたえるローランスにくらべると黒田清輝がまなんだラファエル・コランの筆法など稗史野乗のたぐいにすぎない。絵画とはまずたしかな技術である。素描に素描をかさねたはてにもののかたちをつかむこと。「輪郭整ふて而して後色彩あるは画の常道なり。」

 

 ところが鹿子木がとらえがたき美神の髪をつかみかけたとよろこんだそのとき、ほんとうは、ローランスはもう古くなろうとしていた。小杉にさえみえたこの現実がわからないほど鹿子木がノンキであればもっとよかったのに、気づいていながらそれを無視し不退転の決意で、結局倒れてもまたおきあがる努力精進の一生をおくることになった。かれは報われただろうか。すくなくとも画家の技術は百年前と今とでは比較にならない。

 

(東俊郎・学芸員)

 

鹿子木孟郎展より

鹿子木孟郎についての記事一覧

鹿子木孟郎「教会」

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