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鹿子木孟郎と印象派

中谷伸生

 

 黒田清輝らの白馬会の作風、すなわち印象派の様式を折衷的に採り入れた外光派絵画に対抗し、あくまでも堅実な写実を踏まえて、フランス官学派の伝統的な絵画様式を理想に掲げた鹿子木孟郎は、明治34年(1901年)に渡仏し、アカデミー・ジュリアンの重鎮、ジャン=ポール・ローランスに師事した。鹿子木の死後、京都下鴨のアトリエに残された明治期の素描類の中には、大作の構想を練るために描かれた、おびただしい数のスケッチ類が見出される。それらの中には、正確な写実力を駆使した人体や家具などの部分習作としての下絵素描が含まれている。つまり、対象の部分スケッチを丹念に制作して、それらに基づいて、最終的に大画面の油彩画を仕上げるという、きわめてアカデミックでオーソドックスな制作過程が認められる。また、明治30年代に制作されたアングルの模写「泉」やクールベの模写「海」、あるいはジョゼフ・パイユの模写「厨女図」などは、鹿子木の描写力を改めて確認させる興味深い模写であって、鹿子木が理想とした絵画の一端を覗かせるものでもある。この写実を踏まえた制作姿勢の成果は、明治期の人物画、たとえば、「白衣の少女」(1901−3年頃・明治34−36頃)、「黒い服の男」(1903年頃・明治36頃)、「髭の老人」(1903年・明治36)、そして裸体画に結実した。鹿子木のアカデミックな作風は、京都の風俗など、いかにも日本的なモティーフを選択したときには、首尾よくいっているとは思えないが、ともかく、西洋のモティーフ、別けても、人物画においては、明治の日本の洋画家が描いた油彩画の中でも、稀に見る質の高さを示している。たとえば、「白衣の婦人」(1901−03年頃・明治34−36頃)、「裸婦(後向き)」(1903年・明治36)、「狐のショールをまとえる婦人」(1903年頃・明治36頃)、「ジプシーの女」(1906−7年頃・明治39−40頃)などがそれにあたる。

 

 ところで、鹿子木が最初に渡仏した20世紀初頭のフランスでは、モネを筆頭とする印象派の画家たちが、すでに揺るぎない社会的名声を博しており、その影響は世界中に広がりつつあった。こうした状況下にあっても、鹿子木は、断固として、フランス美術界の主流のアカデミックな表現を守り通そうとしていた。大正13年(1924年)6月、下鴨の自宅で執筆された小冊子『回顧五十年』の中で、画家は次のように語っている。「ルノアールが流行児となりて以来の作品の如きセザンヌが所謂セザンヌ型を作りし以後の作品の如きは余をして何等の敬意を表せしめず之れに反して伊のミケランジェロ、西のブエラスケス蘭のランブラン英のゲンスボロ彿のドラクロアの如き又た近代の畫伯として余が師ローランス先生の如きは余をして最も尊敬の念を増大せしめたり(云々)」。この文章には、徹底した印象派批判が認められ、改めて、明治34年(1901年)の第1回目のパリ到着以降の鹿子木の立場が鮮明になる。ところがである。この回顧が記される7年ほど前の大正中期、鹿子木は、こうした主張の文脈から外れるかのように、作風的に注目すべき絵画を描いている。たとえば、大正期の滞欧作「アブニューオッシュ」(1916年・大正5)や「教会」(1917年・大正6)には、建物や樹木に照り注ぐ明るい外光の表現が見られ、なおかつ、地面に映る陰影の描写には、彩度の高い紫色が用いられていて、一瞥では、あたかもフランス印象派のシスレーやピサロを髣髴させるほどである。「アブニューオッシュ」では、〈描形の崩し〉、つまり人物や荷車の輪郭線を曖昧にした印象派の形態把握が確認される。加えて、前景と後景が等しくぼかされていて、空気遠近法が見られない。さらに、鹿子木の手堅い技法であった、対象に応じての質感の表現も皆無である。要するに、この画面に見られるものは、印象派の特質以外の何ものでもない。

 

 さて、大正4年(1915年)に3度目の渡欧を実行した鹿子木は、このときにも、すでに晩年にさしかかっていたローランスの教えを受けた。こうしたさまざまな事実からして、これら大正期の印象派風の作品を、一体どのように理解すればよいのであろうか。もちろん、当時のフランスにおけるアカデミスムの画家といえども、印象派の外光表現を折・藷Iに採り入れている場合も多々あり、単純に流派分けができるというわけでもない。また、鹿子木の第3回留学においては、サロン画家で、バルビゾン派の後継者でもあるルネ・メナールとの出会いがあり、メナールの外光描写などが、鹿子木の作風に少なからず影響を与えた可能性もあると指摘されている(荒屋鋪透「鹿子木孟郎とルネ・メナール」、『鹿子木孟郎水彩・素描展−1989年』)。

 

 しかし、モティーフや風景描写の雰囲気などでは、鹿子木とメナールには共通するものが見られるにしても、先に挙げた鹿子木の「アブニューオッシュ」や「教会」の印象派風の光の表現とは、実のところかなりの距離がある。また、これらの鹿子木の印象派風の絵画は、いうまでもなく、師ローランスの作風と大きな隔たりを示している。ところで、色彩に関していえば、紫色の影の描写を見せる作品としては、明治末期から大正初期の作品、すなわち、「舞子の浜」(1911年・明治44)、「加茂の競馬」(1913年・大正2)、「山村風景」(1914年・大正3)が挙げられるが、これらの画面では、鮮やかな青紫がふんだんに用いられて、明治中期の暗褐色が、すでに放葉されていることに気づかされる。「山村風景」では、鮮烈な紫色がL山々を覆い、一種異様な雰囲気が画面を支配する。これらと似た色調の作品としては、」「アンスピラシオン」(1911年・明治44)が挙げられるが、この絵画は、明らかにシャバンヌの壁画を理想としており、その点においては、印象派とは一線を画すものであろう。

 

 ところで、明治末から大正初頭にかけては、文芸誌『白樺』が、陸続とフランス印象派の画家たちを紹介しており、ともかくも、大正前期の時代には、日本の多くの画家たちが、印象派や後期印象派の影響下にあった。太平洋画会に所属する鹿子木は、『回顧五十年』の記述にも見られる通り、これまでは、印象派などとはまったく無縁の画家であると考えられてきた。その意味では、「アブニューオッシュ」や「教会」などの作品の存在は、この画家の意外な側面を示しており、われわれの関心を強く惹く。反印象派の立場に身を置いたアカデミスムの画家、鹿子木でさえ、この時期、日本においても、またフランスにおいても、注目の的であった印象派や後期印象派の様式に、秘かに興味を抱いて、心の底では、少々動揺していたのであろうか。いずれにしても、残された作品群を見る限り、鹿子木は、まず不同舎風の写実的絵画から出発して、次にフランス・アカデミスムの様式を学び、ときには印象派の作風に心を動かしながら、同時にシャバンヌらの構想画に意欲をもって、またあるときには、バルビゾン派風の田園風景をものにして、やがて晩年に向かうにつれ、写実に基づいた平明な日本の風景画を描くと共に、徐々にモローらの象徴主義絵画へと傾斜していったことになる。すなわち、鹿子木の生涯にわたる作品群においては、19世紀フランス絵画の三つの流れ、つまり、官学派、印象派、象徴派のいずれもの作風が間歇的に認められるということになる。アカデミーの理想を日本に移植しようとした堅実な写実を誇る〈脂派の画家、鹿子木孟郎〉という解釈は、基本的には大きな間違いを犯してはいないと思う。しかし、作品から跡づけられる作風の展開の中で、「アブニューオッシュ」や「教会」といった印象派風の絵画の存在は、従来の鹿子木像に、ひとつの疑問を投げかけることになろう。

 

(なかたに のぶお・学芸課長)

 

鹿子木孟郎についての記事一覧

ノルマンディーの浜習作(部分)

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1907年(明治40年)

 

 

上を向く男

上を向く男

1903年(明治36年)

 

 

『回顧五十年』表紙

『回顧五十年』表紙

鹿子木孟郎述 私家版

 

1924年(大正13)

 

 

アブニューオッシュ

アブニューオッシュ

1916年(大正5)

 

 

教会

教会

1917年(大正6)

 

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