荒屋鋪 透 われはこれ塔建つるもの 宮沢賢治 |
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「塔を建てた男を主人公にした二篇の文学作品、幸田露伴の小説『五重塔』とヘンリック・イプセンの戯曲 『棟梁ソルネス』が、ともに1892年に完成したのは単なる偶然であろうか。ふたりは建築家を主人公とする物語を構想し、建築家の意志の強さを塔の完成と結びつけているが、その文学作品が発表される三年前、ある歴史的な塔が落成しているのである。それはパリ万国博覧会を記念したモニュメントであり、フランス第三共和制がはらむ科学技術に対するプラグマティズムを象徴していた。『19世紀末フランスにおける共和政体の美術と思想』(1986年)と題された論文(1)のなかで、ミリアム・レーヴィン女史は、観者の意識を微妙に揺り動かすエッフェル塔の構造を分析している。全て対角線状に上昇するよう設置された鉄の支柱によって、観者の目は格子の反復を追っていく。一見脈絡のない部分が、緩やかな曲線を描きながら、次第に上昇する推進力として集約されていくと、観者はそこに体系的秩序を見いだす。装飾のない剥出しの鉄骨は、まさに構造それ自体を提示するのだ。ロラン・バルトのいうように、それは天空に向う立ち上がった橋なのである。製作者ギュスターヴ・エッフェルは架橋技師であった。この体系的な構造と機能主義、そして上昇指向は全て第三共和制の理想と合致している。そして建築史上、エッフェル塔完成前後は建築家が芸術家から技術者にかわる時期と一致する。『五重塔』は、江戸谷中にある感応寺五重塔の建立を巡る物語である。主人公のっそり十兵衛は、義理ある源太親方を差し置き自らの力量を信じて塔を完成する。露伴が西洋のコンペティションを知っていたかどうかはわからないが、のっそり十兵衛はまさに優れた設計案によって選ばれた職人、いわば芸術家となる。この『五重塔』など、いわゆる名匠ものを続けて発表した露伴は、当時『冶工と彿師』(明治23)という一文のなかで、美術家は毅然とした態度で制作に臨み、決して人々に迎合してはならないと主張している。『風流仏』(明治22)や 『一口剣』(明治23)の主人公もその主張を具現して頑固一徹だが、露伴は美術家という言葉を単に失われゆく江戸の職人気質にノスタルジアを感じて使ったのではないようだ。確かに明治20年代は、日本の知識人が急速な西洋化に反発を表明した時期にあたる。文学者としての露伴は翻訳された自然主義に叛旗を翻し、中国古典と江戸戯作に活路を見い出したが、その作品の主題、古い慣習から逸脱し世間から疎外される職人像は、むしろ近代日本の文学者、露伴自身の苦悩を投影しているようにも見える。かつて飯島衛氏は露伴を回想して、彼の科学者としての視点とアルティザンの世界への興味は江戸好みとは異質のものだと述べた(『露伴の理学好み』昭和24)が、露伴にはテクノロジーと人間という、明治の抱えた問題が意識の根底に横たわっている。その露伴の視野に明治22年の新開雑誌を賑わせた、パリ万博とエッフェル塔の情報が入ったと考えるのは唐突であろうか。すでにエッフェル塔建設着手の記事は、明治21年(1888年)1月11日の東京日日新聞に報じられている。そして翌年の万博開催と塔完成に関するものは、久保田米僊の『巴里随見録』(京都日報)を筆頭に朝日・読売各紙に掲載された。その年、23歳の露伴は信州から京都・大阪への旅行後、読売新聞の客員となり、尾崎紅葉・坪内逍遥(同紙文芸欄主筆)とともに健筆を振っている。露伴の作品は実利的な文明開花の世相を批判し、江戸の名匠気質を復古するものとして評価されたが、その視線は過去に向けられていただけではないようだ。明治22年の造家学会(現・日本建築学会)から刊行された『建築雑誌』(1889年6月)には、「エーフェル塔観覧記」が掲載されている。それに露伴がはたして目を通していたのかは疑問だが、そこに所載された論文は、外国雑誌の抄訳とはいえ、明治日本がその塔に対して鋭敏に反応していたことを物語っている。後年、露伴は『一国の首都』と題する優れた都市論を著したが、整然とした江戸の町の秩序と比べて、折衷的な東京の俗悪さを痛烈に攻撃しながら、あたかもパリの都市計画を敷衍するような口調で、公共福祉施設の充実、道路、下水道の整備に触れていく。この『一国の首都』は、明治33年、まさに1900年パリ万博の年に執筆されたものだ。ところで小説『五重塔』が発表された時、坪内逍遥は雑誌『早稲田文学』に短い紹介文を寄せている。逍遥はそこで「吾人未だイプセンが個人主義の果して露伴子が特色主義と同一なるかあらぬかを明めずと雖も」と、主人公のっそり十兵衛に近代的な個人主義の萌芽を見ている(明治25年11月、28号)。逍遥によるイプセンの紹介はこの五重塔の紹介文と同じく、明治25年11月であるから、彼は露伴文学のなかに、イプセンの戯曲で繰り返し語られる、近代的自我の萌芽と、自我と因習的な社会との相克や挫折というテーマをすでに感じていた。ただイプセン晩年の代表作、彼の戯曲のなかで最も自伝的要素の濃い作品といわれる、『棟梁ソルネス』の主人公の苦悩はさらに複雑であった。ソルネスは教会を建てることで神に奉仕してきた建築家だが、彼は世俗的な成功の代償にふたりの子どもを失い、不幸な妻の病気を背負っている。「聞きたまえ、偉大な力の主よ!今日からわたしも自由な棟梁となる。自分自身の領域で。あなたがあなたの領域でそうなっているように。わたしはもう決してあなたのための教会は建てない。建てるのは人間のための家だけだ」(毛利三彌訳)。神に挑戦したソルネスの悲劇は、たとえ人間のための家をつくっても、それが幸福を保証するものではないという深い挫折感によってさらに強調されている。「人間にはそういう家なんかなんの役にも立ちはしない。幸福になるための役にはね」(毛利訳)。露伴の主人公が、江戸の職人を超越した堅固な意志によって高らかに芸術家としての凱歌をあげる時、イプセンの主人公はその勝利の瞬間、塔から墜落して死を遂げる。メーテルリンクは『棟梁ソルネス』を、演劇史上最初の偉大な象徴劇と位置づけたが、ソルネスの死は空中の楼閣という幻想を抱いた技術者(棟梁)にくだされた最後の審判(ノーマンド・バーリン著『悲劇、その誕生』、長田・堤・若山訳)だといえよう。『五重塔』の露伴は、技術の優先する明治日本に江戸の職人を登場させて、芸術家の自由意志を称揚しているが、イプセンのソルネスは芸術家の苦悩と挫折を暴露してみせる。そこには明治20年代の日本と世紀末ヨーロッパに見られる、芸術と技術をめぐる異なる問題が錯綜している。前掲した論文のなかでレーヴィン女史は、エッフェル塔を建築というより、遠くにありながら近くに見える、距離感の喪失したひとつのオブジェだと指摘するが、その空間表現は骨組構造と垂直指向をもつゴシック建築同様、光と密接に係わっているのではなかろうか。ゴシックの窓が採光の窓ではなく光の壁であるように、永遠の空間に浮かぶ孤立したオブジェ、エッフェル塔は、その部分と全体が機能的に連関する近代的な社会構造、人間関係をも象徴するように我々の眼前に存在する。写真マニアであった小説家エミール・ゾラは、何枚かエッフェル塔から撮影した写真を残しているが、それは20世紀という時代が獲得した空間を端的に表現している。あるものはアンリ・リヴィエールの連作版画と瓜ふたつであり、またあるものは後の芸術写真を予告するものなのだ。1989年に開催された、1889年パリ万博を回顧するいくつかの展覧会のなかに『エッフェル塔が新しかった時』(2)という企画があったが、そのカタログでガブリエル・ワイズバーグが述べるように、第三共和制下のパリは物質の豊かさを強調した、産業社会と芸術の蜜月の始まりであり、その社会の天空に聳える塔は、人間に新たな空間と視点を提供し、人間と技術を巡る新たな課題を投げ掛けながらも毅然として、都市空間の中心に直立しているのである。 (あらやしき とおる・学芸員) |
1.Miriam R. Levin, Republican Art and Ideology in Late Nineteenth-Century France, 1986, U.M.I., p.207ff. 1.幸田露伴『五重塔』初版本の表紙 2.ゾラ撮影による、エッフェル塔から見た万博会場、1900年 3.アンリ・リヴィエール『エッフェル塔三十六景』より 1888-1902年、リトグラフ 4.ゾラ撮影による、エッフェル塔から見た万博会場、1900年 5.アンドレ・ケルテス『エッフェル塔の影』、1929年 2.Gabriel P.Weisberg. The Republican Style in the Age of the Eiffel Tower, in exh. cat. When the Eiffel Tower was New, Mount Holyoke College Art Museum, 1989. |