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等価問うか透過と羽化 ―第三回具象絵画ビエンナーレより

石崎勝基

 

 「写真が呈示するのは、無限個の事象が無段階的に連なったひとつの風景、そのかぎりで、言葉や意識の働きではついに捉えることのできない、無人称的な風景である。≪シュノーケルで遊ぶ人≫には、撮影したときには作者も気づかなかった人や岩が無差別的に写っている、というだけではない。その任意の細部…(中略)…を拡大してゆけば、そこには彼の眼にも捉えられないような小さな生き物や、砂や石の結晶までもが視えてくるような…(中略)…写真はその記録性において、可視性を―ということは個の視覚を―超えた無名性、無人称性へと開かれているのである」(『写真の過去と現在』展カタログ、東京国立近代美術館/京都国立近代美術館、1990、P.9)。

 

 松本透がアンドレアス・グルスキーの作品によせた以上の記述は、写真一般の特質を剔抉しえているように思われる。被写体をいかにフレーム内に配するか、ピントをどのようにあわせる如何によらず、写真にあっては、画面上のあらゆる点が等価なのだ。モティーフが撮影者によって選択されるものであり、その意味で映像は決して中立ではありえないが、しかしそれも、画面自体からは外在的な前提にすぎまい。レンズがとらえるのは、周囲から孤立したモティーフではない。いっさいを光の函数に置換する機械であるカメラは、その化学的過程において、画面全体に対し同時的である。モティーフと周囲に差別はなく、その時の光の状況が、たまたま何らかの図を浮かび上がらせるだけだ。だからこそ、写真の客観性という神話が信仰されたのだが、実のところ、真なのは外なる対象との対応ではなく、フレーム内にもたらされた空間全体のイリュージョンなわである。あらゆる座標において等価なイリュージョンは、何らかの焦点へと組織されることなく、画面上のすべての点で同時に、画面に対し垂直に働く。ゆえに、写真のイリュージョニスムは完璧で、物質性に束縛されないかのごとく感じさせよう。絵画において画面と垂直の奥行きを成立させんとした線遠近法的空間に必須だった天地なる座標軸も、写真には不要だ。線遠近法的絵画のように画面を窓とすることもなく、ただ発現するという作用のみが働くので、へだたりそのものであるそこは、光がみたす空間であり、またへだてられることの時間をはらむ。さらに、ただ発現のみなれば、始点ないし目標であったイメージも空無化されることになろう。

 

 もとより、写真も非物質でありえようはずはなく、プリント如何を条件とするが、その場合でも、絵画のように支持体から絵具の表面へと積層するのではなく、映像と印画紙は浸透しあっているように見える。またモノクロームヘの還元は、個々の色の空間性の差異を排することで、光の函数化を守ったのだろう(70年代後半まで「写真表現といえばほとんどが白黒写真に限られていた」という、伊藤俊治、「1960年代以降の写真表現」、『講座20世紀の芸術7 現代芸術の状況』、岩波書店、1990、P.276)。他方、変遷を蒙らなかったわけでもない。「やや特殊な地位を占めている」、「美しく見える」とされる、いわゆるモダニズムの写真では(松本、同前、P.8)、等価なイリュージョンの発出が純粋なイメージの現前を保証すると信じられていたようだ。予定調和、いいかえて画面という枠内での表現の可能性への信仰はしかし長く耐ええず、外部への関係、社会性や制度の問題を意識せざるをえなくなる。さらに1980年代、「自己を中心にした、確かな現実を前提とする写真表現が以後、大きく揺らいでいく」(伊藤、同前、P.274)。コンストラクティッド・フォト等の動向は、しかし、かつてのピクトリアリズムのように、写真を絵画に近づけんと操作の手を加えるのではあるまい。むしろ、イリュージョンにおけるイメージの根拠が自明ではないことを認識せざるをえなくなったがゆえに、イメージを操作しようとしまいと、写真は写真でしかないことが確認されてのちの、よるべなき戯れではないだろうか。

 

 画面上におけるあらゆる点の等価性という時、ただちに想起されるのは、絵画におけるオールオーヴァな空間の成立であろう。写真が絵画に及ぼした影響なるものにしても、視野のトリミングから、写真が絵画を再現から解放した、ないしその領域を簒奪した云々という一般論にいたるまで、空間の等価性が深部で通底していたと考えられる。もとよりこれは、写真の一方的な影響ではなく、ダヴィッドやアングルらでの平面化の傾向、初期ラファエル前派やサロン絵画の写真的再現性などを兆候に、19世紀絵画全体を通じて現れつつあった変動の一相である。起源を巡る文明論的物語(ミュートス)は手にあまるが、話を絵画に限れば、かつて藤枝晃雄が「空間の崩壊」といいあらわした事態が(『現代美術の展開』、美術出版社、1986、P.54,91,93など)、後期モネ、分析的キュビスム、モンドリアンからポロックやニューマンら、そしてミニマル・アートにいたるオールオーヴァな空間を顕在化した作品のみならず、いわゆるサロン絵画、さらにデュシャンのレディ・メイドなどにおいても底流をなしていた。この点、藤枝が「崩壊」の語と関連して、たとえば「ポロックの空間がもっていたその消極性」(同前、P.36)と記している点に留意しておこう。「ポロックは、現代美術が辿らねばならない限界のなかで絵を描き、それを展開させて幾点かの秀作をものしたが、その展開はきわめて重大であっただけに、絵画の限界をより明確にさせたのである」(藤枝、『ジャクソン・ポロック』、美術出版社、1979、P.195およびp.205参照)。

 

 写真がイリュージョンの等価性をあらわにした時、それが非物質的な見えを呈したがゆえに、・イリュージョンの発現そのものが等価性と連携すると感じられたのではなかったか。イリュージョンとはエッセンスにまで還元された表現の謂いであり、等価性は、物体としての画面に対しイリュージョンが垂直に働くことを意味する。しかし、写真がこの等価性/垂直性を事前に保証されているのに比して、絵画は、支持体から地塗り下塗りを経て絵具層にいたる段階を踏まざるをえない。写真の同時性に村して、少なくとも制作の時点では継起的たらざるをえず、物体としての重層性がイリュージョンの垂直性を疎外しがちなのだ。この時絵画の、少なくとも一部は、おのれを所与の条件一物質的な姿すなわち平面へとかぎりなくきりつめ、継起的な過程が自然に導くであろう焦点の形成をできるだけ拡散させて、ぎりぎりのイリュージョンをかすめとることを選んだ。平面化は、物体にとどまる危険を犯しつつ、イリュージョンの垂直性を取り戻すためにこそ進められねばならなかった。

 

 もとより、オールオーヴァネス自体は、質の保証とはなりえない。表現に保証のないことの認識が、緊張をはらむ可能性を有するのだ。第3回具象絵画ビエンナーレが〈人の生きる・今〉をテーマにした時あきらかにされたのは、現在における、独立した図をなすはずの人間表現の困難さであろう。具象抽象を問わず、画面そのものとイリュージョンとのずれを自明たりえぬと意識することなく、画面上で造形的な処理を按配したり、画面をイメージ投影のためのスクリーンと見なす、逆に画面の物質性に依拠する時、それらの作品は折衷派(ジュスト・ミリュー)たる出自をさらすことになる。その点、斎藤吾朗の作品では、対象描写を線描のみに衰弱させることで、油彩本来の透過法による色面の発現がいくばくか救われており、また、平賀敬の作品が多少とも強さを持ちえたのは、色の対比の抑制とともに、平面的な処理を、画面に垂直な視線を放つ人物の正面性と相即させたからだろう。

 

(いしざきかつもと・学芸員)

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