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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.21-30) > ひる・ういんど 第27号 柳宗悦のウィリアム・モリス観

研究ノート

柳宗悦のウィリアム・モリス観

土田真紀

 

 アール・ヌーヴォー関係の文献や小野二郎氏の著作を通じて、ウイリアム・モリスは近年再び日本において知名度を回復しつつあるが、かつてブームといえるほどの人気を博した時期があった。明治末から昭和初期にかけてのことで、昭和9年には生誕百年を記念して『モリス記念論集』も出版されている。この人気には、社会主義者としてのモリスがかなり大きなウェイトを占めていたものと考えられ、当時出版された書籍として、大熊信行著『社会思想家としてのラスキンとモリス』(新潮社、1927年)などを挙げることができる。一方工芸家、工芸思想家としてのモリスに注目した日本人としてまず思い出されるのは、1912年に「ウイリアム・モリスの話」を『美術新報』に掲載した富本憲吉である。彼は1908年にイギリスに留学した際に、モリスの調査を行った。その後の彼の軌跡から、モリス体験が彼の生涯に及ぼした影響の深度が推測できる。しかし工芸を通じて、モリスと最も深い関わりをもった日本人は、恐らく柳宗悦ではないだろうか。

 

 この二人の思想家には、彼らが共に近代工芸運動の優れた指導者であったという以上の親近性が感じられるように思われる。彼らは共に多彩な活動を行い、様々の分野にわたる膨大な量の著作を遺し、芸術と社会という、彼らが生きた時代にあってはますます有機的な結び付きを失いつつあったものの間に、再び正常な関係を取り結ぼうと試みたのであった。その際、彼らが拠処としたのは、絵画や彫刻などのいわゆる純粋芸術ではなく、従来それよりも価値が劣ると見なされてきた民衆の芸術、すなわちモリスの場合には「小芸術Lesser Arts」、柳の場合には「下手ものの美」とそれぞれ呼んだものであった。また、自身工芸家でもあったモリスに対し、柳は自ら工芸を手掛けることはほとんどなかったといってもよいものの、鶴見俊輔氏が指摘するように(『柳宗悦』平凡社、1976年)、大正期に文芸雑誌『白樺』の編集に参加した頃から雑誌の体裁などにこだわりをもち、進んで木版を手掛けたりする一面を持ち合わせていたということなども、両者の親近性を窺わせる。ここに挙げた図版は、柳が木版を刻んだという『白樺』の挿図である。

 

 柳宗悦が、1934(昭和9)年(モリス生誕百年の年)に雑誌『工藝』に連載し、後に改訂を加えて『私の念願』に収めた「工藝雑話」の中に「ウィリアム・モリスの仕事」という一文がある。それほど長い文章ではない。1929年、浜田庄司と共にイギリスに旧知のスコット氏を訪ねた柳は、氏の案内でコッツウォルドの村々を訪れた際、ケルムスコットのモリスの家にも立ち寄る。モリスが亡くなって30年以上が経っていたが、彼の末娘のメリーが一行を暖かく迎え、貴重なケルムスコット版の『チョーサー著作集』を見せてくれたりした。

 

 何にしても近代の書物として最も有名なこの本を目前にして、うたたモリスの残した仕事を偲んだ。・・・帰り がけに私達は程遠からぬ食堂の庭に眠るモリスの墓を訪ねた。・・・夕ぐれのせいか、あたりは寂として声がな かった。あの闘い抜いた人生の戦士が、闘い終へて永遠の平和に帰った感を深く受けた。この世に工藝の問題が 残る限り、彼の墓を訪ふ者はいつまでも絶えないことであらう。柳がモリスの存在と最も身近に接した時のことを語る唯一の文章といっていい。淡々と語られてはいるが、ここには真に深いモリスヘの共感がある。

 

 こうした深い共感の念は、たとえば、モリスやラスキンがその中世への帰依によって、しばしば「復古主義者」と呼ばれたことに対して、「第一批評家達がラスキンやモリスの如く中世紀の美を深く見つめてゐるか」とそれを擁護し、安昇な批判をこそ批判しようとする姿勢にもはっきりと示されている。さらには『工藝の美』の中の「工藝美論の先驅者に就て」で、「初期の茶人達」と並んで柳がその名を挙げているのはラスキンとモリスである。そこにおいても、またこれ以外に繰り返し二人の名前が現れる箇所でも、柳が彼らを、その時点でほとんど理解者のいない自らの険しい道のりにあって、その先を力強く歩んでいった頼もしい先駆者とも、道連れとも考えていることが窺われるのである。それは影響があるないといった問題などはるかに超えた深い関わり、一種の絆のような感じであるといってよい。こうしたことを前提とした上で、次に柳のモリス批判を検討しなければならない。そこからは、共感の念が深ければ深いほど、その批判もまた鋭いという印象を受ける。「工藝の協團こ関する一提案」の中に次のような一節がある。

 

 嘗てモリスは同じ様な運動を起した。實際彼の意志に共通な幾多のものを私達は感じてゐる。だが どうして彼は失敗したか。その原因は幾多あるであらうが、本質的な致命的な原因は、彼が正しき工藝の美を知らなかったのだと云ふ事に歸着する。彼自らが試み、彼が他人にも勧めたのは工藝ではなく美術であった。云はゞ美意識に禍はされた工藝である。私達が脱却せねばならぬと思ふそのものを、彼は試みようとしたのである。「ラファエル前派」とは稱 してゐる が、まだ充分にゴシックに歸つてはいない。之はその派に属する人々が、主に美術家で  あつて、工藝家ではなかつたからであらう。

 

この文章を著した翌年、柳たちはそこに述べられた提案を実行に移し、「上加茂民藝協團」を設立している。「工藝の協團」、すなわちギルドの設立という着想自体、ラスキンとモリス、そしてその直接の影響のもとにイギリスで展開したアーツ・アンド・クラフツ運動に倣ったものであることは間違いない。しかし、柳は彼らの基本理念には共鳴しても、モリスの興した工芸の復興が、結局<工芸の美術化>であったとして、その内容を批判した。この批判は他方で個人作家の問題とも結び付いていく。柳は<天才>としての個人作家よりも、無名の職人にこそ工芸の未来はあると考える。

 

 こうした批判はいったい何に基づいているのか。その背後には美術と工芸のあり方についての彼独自の見解がある。柳は昭和9年に書かれた「美術と工藝の話」の中で、歴史的な流れを追い、体系的に「美術」と「工藝」との区別の問題について詳しくかつ明快に論じている。柳は両者の区別が個人主義の思想に基づく、きわめて近代的な現象であるとする。従来は共に一種の「技術」であったが、近代以降、「美術」のみが、作家個人の思想や精神に基づく美の純粋な追求として自らの地位を向上させたのであった。その結果両者は分離した。モリスが試みたのは、工芸を美術に近づけることによって、再び両者の結合を図ることであった。これに対して柳が主張するのは、工芸が工芸本来の性格である「伝統性」「地方性」「手工性」を貫くことによって復興を図り、その上で再び美術と工芸とを一つに結び付けるということである。この最後の点になると、柳の議論もかなり抽象的で曖昧になり、具体的な綜合の道は示されてはいない。ただモリスとの関係において肝心な点は、個人作家の意識から生まれる独創性よりも、無名の工人の無意識の手が生む伝統性をあくまで重視するということである。これはモリスの中世主義以上に徹底した中世主義であり、「反近代」の姿勢とさえいえる。柳は若い頃に、『白樺』という、いわば西洋近代を日本に移入するにあたって大きな影響力をもった雑誌の編集に関わりながら、徐々にその近代のもつ限界に気付き始めていたのではなかろうか。その背後には、「他力道」という言葉に集約される仏教の存在が大きく感じられもする。

 

 以上柳自身の言葉にしたがってそのモリスとの関わりをみてきたが、これは柳宗悦とウィリアム・モリスについて考える一つのとっかかりにすぎない。柳のモリス理解にも当然誤解は含まれていると考えられる。しかしその批判はかなり的確に、モリス及びそれ以後の西洋近代工芸・デザインの問題点を突いているといってもいいのではないだろうか。  

 

(つちだまき・学芸員)

 

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