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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.21-30) > ひる・ういんど 第26号 カード城の崩壊 ヤン・トーロップ展より

カード城の崩壊 ヤン・トーロップ展より

石崎勝基

 

 『リサデルのアニー・ホール』(FIG.1)は一般に、トーロップ初期のいわゆる印象主義的な作風に属する作品と見なされよう。形態をくっきり輪郭づけない筆触を活かした 〈絵画的〉な様式、ついで、そうした様式がめざす全体を溶かしこむ空気の感覚や光の描写の二点で、印象派の、直接ないし間接的な影響が指摘されるのだ。

 

 ただし、印象派ということばで、モネをはじめとするフランスの画家たちが達成した様式を想起することが、歴史的な意味で適切かどうかについては留保が必要である。絵画的(マレーリッシュ)な様式は、レンブラントやハルスなど17世紀以来のオランダ絵画の伝統であったことはもとより、19世紀においては、フランスやオランダのみならず汎ヨーロッパ的にひろがっていた。バロック様式の延長線上に位置づけられるということがあろうし、また手の動きを残す処理に生気や親しみやすさを感じるという趣味が浸透しつつあったのだろう。この点で、フランス印象派と、トーロップにせよ、たとえばドイツのリーベルマンなどの一般に印象派的と称される様式とは区別しなければならない。

 

 色彩の選択に注意してみよう。この作品は褐色の調子の変化からなっており、色と色との対比ではなくひとつの色の明度の推移によって対象の立体感を表わす伝統的な明暗法の枠から出ていない。褐色は、強い個性を持たない、にもかかわらず大地の色としての基底性・安定感をはらむがゆえに16世紀のヴェネツィア派以来、絵画における色彩の、現象学的な意味での〈地平〉のようなものだったといってよい。これは、ジオットに端を発し、16世紀に定着して以後19世紀まで西欧絵画を通底する枠ぐみとなる、画面に対して垂直な奥行き一に後退する空間のとらえかたに由来するものである。画面に垂直の方向性とは二次元の平面にとって本来矛盾するはずで、だからこそ安定させるために画面の下部に配されるべき大地とその色が大きな役割を課せられたのであろう。トーロップの初期作でのもうひとつの基調色であるグレーも同様に、突出することのない中間性ゆえ調子の展開源たりえた。

 

 褐色やグレーはさらに、絵の最上層のみならず、文字どおり基底として地塗りにおいてもヴェネツィア派以来しばしば用いられた。有色地塗りは明と暗の中央にあって双方への移行を定めるに易いため、明暗法の原理によくかなうものとしてそれまでの白地にかわって近世絵画の主流をなしたという。フランス印象派では、結果としてモノクロームに近づくことは少なくないにせよ、色の輝きを求めたため地塗りは概して白に戻る※※。『リサデルのアニー・ホール』では、画面下の床の部分を賦彩するすばやい筆触のあいまに見えるように、地塗りは暗めのグレーである。これはトーロップ初期の作品の多くにあてはまる。褐色の諧調の変化が描き出す灰暗い室内、そこにみちる空気と一条の光によって、瞑想的な静けさを表現することがこの作品の主眼であり、そうした表現はレンブラントに遡ることができよう。

 

 近世絵画の伝統におさめうるこの作品はしかし、それだけでかたづけられるわけでもない。絵の表面の印象は、油彩による連続的な推移から期待される潤いを欠いており、むしろ硬質な、乾いたものである。これは油分の少ない堅練りの絵具が多く使用されていることによるのだが、さらに、ペインティング・ナイフか堅めの平筆等を用いることで、それが平らな小面として置かれて、絵具の物質性がいっそう印象づけられることになる。レンブラントにあっては対象がいかに闇に溶かされようと、空気は丸みを帯びた形態を柔らかく包むごとくして画面に示されない裏側までまわりこむ。対するにここでは、堅く平らな絵具のタッチが強調されることで、画布の上に絵具が積み重ねられるという、絵画の物としてのありようを感じとらせることになる※※※。そのため画布と垂直に進むべき視線は遮断されてしまうのだ。初期のトーロップはしばしば目の粗い画布を選んでいるが、これは絵肌の変化を求めるという以上に、平坦になってしまう絵具ができるだけ画布に喰いつくことを期待したのであろう。ナイフの使用と厚塗りは結局、画面全体に著しい亀裂を走らせてしまったのだが。

 

 女性の横顔のシルエットは、きわめて丁寧に型どられており、むしろこわばっているほどである。対するに右端、上から三分の一ほどのところには、何かを塗りつぶそうとしたかのような灰褐色の部分が認められる。また左上すみには、下描きだけでしあげられなかった輪郭が残っている。横顔と筆致を活かした部分との対比は本来、横顔に収束してゆく空間の効果を狙ったのであろうが、未整理にとどまったためか、画布に即した横へのひろがりを感じさせることとなっている。

 

 明暗によって深みをだすはずが平面としての画布と物質としての絵具を強調してしまうとは、前者を支えるべき空間観が崩壊しつつあることを物語っている。点描法、『テニスコート』(表紙図版)での薄塗り、平面的に線が動く象徴主義期の作品、さらには『祈る人』(FIG.2)における支持体の紙を削ってしまう線にまでいたる、その後のトーロップのめまぐるしい展開は、枠ぐみとしての空間の幻(イリュージョン)がリアリティを失なった地点で、物としての面の「空虚な拡がり」(早見尭)にしかるべき表現の方法を築き上げようとする模索にほかなるまい。

 

(いしざきかつもと・学芸員)

 

作家別記事一覧:トーロップ

ヤン・トーロップ FIG.1 リサデルのアニー・ホール

FIG.1 リサデルのアニー・ホール

1885年

 

 

ヤン・トーロップ FIG.1 リサデルのアニー・ホール 部分

FIG.1 部分

 cf.金田晉『絵画美の構造』(勁草書房,1984)p.145-169

 

※※ 屋外での制作に便利な、地塗りずみの市販のキャンヴァスの使用(それにチューブ入りの絵具)も関連しているらしい。

 

※※※ ただ、今回出品された油彩の多くは、修復の際絵肌の凹凸がつぶれてしまったということで、その点は考慮しなければなるまい。

ヤン・トーロップ FIG.2 祈る人

FIG.2 祈る人 1914年

 

ヤン・トーロップ FIG.2 祈る人 部分

FIG.2 部分

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