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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.21-30) > ひる・ういんど 第26号 トーロップとカトウェイク・・象徴主義の構図の源泉・・

トーロップとカトウェイク・・象徴主義の構図の源泉・・

土田真紀

 

 ヤン・トーロップはその生涯に2度、ライデンの西にあたる海岸沿いの小さな漁村、カトウェイク・アーン・ゼーに住んだ。ジャワ島に生まれ、11歳でオランダに渡ったトーロップは、オランダ国内を初め、ブリュッセル、ロンドンなど様々な土地を転々としたが、それらの土地は、トーロップの芸術にそれぞれ固有の刻印を残している。そのなかで最初のカトウェイク滞在は、ちょうどトーロップの象徴主義が形成されていく時期にあたり、代表作「三人の花嫁」を初め、彼の象徴主義の作品に、カトウェイクという土地が大きな影を落としているように思われるのである。

 

 トーロップがカトウェイクに移り住んだのは、1890年4月のことであった。その前後から、強く禁欲的な雰囲気を漂わせて、黙々と仕事に励むカトウェイクの人々の素描を描いている。北方の冷たく透明な光に満ちたそれらは、象徴主義とは全く無関係に思われる作品群である。しかしトーロップの象徴主義はまさにこのカトウェイクに育まれていったともいえる。たとえば、カトウェイクの男女はそのままの姿で、「海のヴィーナス」のようなすでに象徴主義といっていい作品に登場している。ここで、海を背景に何ものかを悲しんでいる彼らは、画面右の謎めいたモティーフが潜むジャングルのような混沌に対して、北方の秩序の世界そのものを表しているかにみえる。

 

 こうした村人と同様、カトウェイクの風景もまた、トーロップの象徴主義に深く関わることになった。繰り返し描かれた一つのタイプは、前景の小高い丘に人物を配し、その背後に、パノラマ状にカトウェイクの町、さらに砂丘と海が広がっているというものである。たとえば、1890年の年記をもつ素描(図1)には、前景の丘を馬をひいて横切ろうとする漁師が描かれ、その背後に橋、教会の塔がそそり立つ街並、砂丘、海が、順に積み重なるように広がっている。別の素描(図2)では、同様の丘に母子と三人の男が描かれている。その図像は、画家自身が画面右下に記しているように、キリスト降誕のテーマである「マギの礼拝」に他ならないが、それは日常的風景のなかで、現実の姿のままのカトウェイクの村人によって演じられており、画面はスケッチ風に仕上げられている。また、1891年の「砂丘の放浪者たち」(図3)では、やはり前景の丘に主要な人物が配されているが、設定が異なり、街並は描かれず、丘自体が砂丘の中にある。そこでは、荷車に家財道具一切を乗せてさすらう一家が重苦しい空気のなかに休息しており、右手には墓地が、左手にはほとんど隠れるように、地面を耕す農夫が描かれている。入口の二本の柱に頭蓋骨が置かれた墓地は、彼の多くの象徴主義の作品の舞台となっているが、シーベルホフによれば、架空のモティーフではなく、カトウェイクの街外れにあった実在の墓地であり、気味の悪い頭蓋骨は「メメント・モリ(死を忘れるな)」を意味する彫刻であるという。()深い憂愁と死の翳りが全体を覆っている、このブルー・グレーとベージュが入り交じった色調の美しい素描において、トーロップは半ば現実に即しながら、半ば象徴の世界に踏み込んでいるといえよう。「信仰と懐疑」「労働と心配ごと」「教会の庭で休息する若い二人」「若い世代」など、前景の丘と後景のパノラマ的風景という同タイプの構図を有する作品は、それぞれ程度の相違はあれ、象徴主義の要素を示している。

 

 こうした構図が最も明確な形をとっているのが、1892年の「カトウェイク(図4)であろう。湾曲する平行線がかたちづくる丘の上には子供を抱いた母親(明らかに聖母子)が座し、背景には街と砂丘が広がっている。街には様々な村人の姿が見られる。先の「マギの礼拝」と比較すると、まず母子のいる丘が完全に背景から切り離された、非合理な空間に転じている。背景はカトウェイクの実景に即していると思われるが、クレヨンの線が隅々まで埋め尽くしている茶系のモノクロームの画面は、ちょうど記憶の中の風景のような性格を帯びている。中央の女性の顔も、故意にぼかされ、現実感を失っている。すなわち、この作品には、「マギの礼拝」には見られなかった一種の〈象徴化〉の作用が働いており、背景に展開しているのも、恐らく何ものかの象徴としてのカトウェイクの姿なのである。そうしたものとして、とぼとぼと歩む男、若い恋人たち、働く人々といった様々な人間の姿、そして人間の住む世界と対置された砂丘が描き込まれている。一方丘の上の母子は、正面を向き、観者と直接に向かい合うことで、イコンのような性格を持ち始めている。前景と後景とは空間的には非連続でありながら、風景が湛えているどこか黄昏時を思わせる憂愁の雰囲気と、人物から伝わってくる悲しげな気分とは一致しており、前景と後景との密接なつながりを窺わせる。

 

 この「カトウェイク」に続いて、1892年から3年にかけて制作された「三人の花嫁」「宿命論」「おお死よ、なんじの勝は何処にかある」(図5)など、トーロップの象徴主義の頂点をなす作品群においては、いずれも「砂丘の放浪者たち」に登場した墓地が出来事の舞台となっている。前景は、高みとしての〈丘〉から閉じられた〈庭〉へと移ったのである。しかしなお背景には、闇に包まれて、砂丘(そして恐らくは海)が認められ、これらの作品がカトウェイクと関連するものであることを物語っている。実はこれらは、トーロップがカトウェイクを去った1892年5月以降に描かれた。様式の抽象的・線的な性格はさらに進み、パノラマ的風景が十分に展開していくために不可欠な三次元空間の表現とは真っ向から対立するものであるため、背景もますます抽象性を帯び、一種の文様と化しつつある。トーロツプの絵画は現実の時空を超えようとしているのである。しかしなおそこには、カトウェイクの面影が認められる。一見平凡な漁村に思われるカトウェイクこそは、トーロップの象徴主義の母胎ともいえる土地であったと考えられる。

 

 また、前景の丘と後景のパノラマ的風景が組み合わされた構図は、かつてミラド・ミースが「プラトー構図」と呼んだものである。トーロップが初期ネーデルラント絵画をどれほど意識していたかはさておき、彼の「カトウェイク」は、ヤン・ヴァン・エイクの「聖女バルバラ」(図6)などを想起させる。中世末期において、いわば時空間を超えた非現実の存在として描き出されていた宗教的図像が、自然主義的に描写された空間内に持ち込まれたときに「プラトー構図」が出現したとすれば、それとは逆の過程を辿って、19世紀末の自然主義的な絵画空間のなかから、超空間的、超時間的なイメージ、すなわち象徴主義の図像が生み出されようとした際に、トーロップの〈プラトー構図〉が出現したとはいえないだろうか。

 

(つちだまき・学芸員)

 

年報/ヤン・トーロップ展

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ヤン・トーロップ 図1 貝を探る人々

図1 貝を探る人々 1890年

 

ヤン・トーロップ マギの礼拝(現代のベツレヘム)

図2 マギの礼拝(現代のベツレヘム) 1890年頃

 

ヤン・トーロップ 砂丘の放浪者たち 

図3 砂丘の放浪者たち 1891年頃

 Siebelhoff, R., "The Three Brides.A drawing by Jan Toorop". Nederlandskunsthistorische Jaarboek, 27 (1976), n.24.

図4 カトウェイク 1892年

図4 カトウェイク 1892年

 

図5 おお死よ、なんぢの勝は何処にかある 1892年

図5 おお死よ、なんぢの勝は何処にかある 1892年

 

図6 ヤン・ヴァン・エイク 聖女バルバラ 1437年

図6 ヤン・ヴァン・エイク 聖女バルバラ 1437年

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