中谷伸生 ドガのパステル画「マント家の人々」(1879-80年頃)を眺めていて、ふと気づくのは、向かって左側に立つ少女の帽子のまん中あたりから、黒っぽい服を着た母親の胸部にかけて、水平方向に走る線描が認められることであろう。これは、画面上部に紙を継ぎ足した痕跡である。 通常、こうしたドガの継ぎ足しは、描き続けているうちに、モティーフが、画面に収まらなくなって、やむなく紙を足した、と説明される場合が多い。しかし、事はそれほど簡単ではない。というのも、即興的なクロッキーならともかく、この作品はアトリエで綿密に描かれたものだからだ。ドガと知己の間柄であった詩人ヴァレリーが述べているように、ドガは「即興的に制作したりするのを極度に恐れていた」(『ドガ、ダンス、デッサン』)といわれる。アトリエ内で、一枚の画用紙を前にして、アカデミックな画技を身につけた画家が、構図を狂わせて、描こうとする人物などを、当初に用意した画面からはみ出させてしまう、というようなことが、頻繁にありうるだろうか。繰り返していうが、頻繁にである。 もっとも、当初に用意した画用紙から、はみ出すというケースは、たとえば、サンパウロ美術館所蔵のパステル画「腕を拭く裸婦」(1891年頃)の場合にあてはまるようである。おそらく、この作品は、左右逆に描かれた素描を、〈摺り〉によって反転して写しとる、いわゆるカウンタープルーフを考慮に入れて制作された作品であろう。オスロ国立美術館所蔵の木炭素描「腰掛ける裸婦」(1891年頃)と左右逆の同じ構図で、プレス機の大きさと関係があるのかも知れないが、はじめは上下の幅が、およそ5センチづつ狭い画面に描かれ、後に上下の部分に別の紙が継ぎ足されて、大きくされたようである。左足のかかとの部分は、もともと切れており新たに描き足されている。付け足された部分が、もとの画面と、際だって色が異なって見えるが、それは、作品にかびが生え、絵の具が変色したからである。要するに、この作品の場合では、〈摺り〉の技法を用いて、同様のモティーフを増やす目的があったため、最初から、〈継ぎ足し〉 ということが考えられていた、ということになる。ドガは、これとまったく同様のモティーフを、少なくとも14点は制作しており、彼のあくなき追求の凄さを見せつけている。 しかし、「マント家の人々」の場合には、おそらく作品制作の過程、あるいは完成後に、切断という事態が起こったようである。しかも、その場合、目算が狂ったというよりも、むしろ一度描き終えた作品に、不満をもったドガが、気に入らない箇所を切り取って、白紙の紙を継ぎ足し、その部分だけ、再度描き直した可能性が高いのではなかろうか。 でき上がった作品の一部を切り取って、描き直すというやり方は、日本画の下絵においては常套の手段である。一例を挙げると、竹内楢鳳の「絵になる最初」などの大下絵では、気に入らない箇所が切り取られ、あるいはその上に、新たに紙が貼り付けられて、再度描き直されている。ひとつの主題、ひとつのモティーフを、執拗に繰り返して追求したドガは、完成した作品に不満を覚えた場合に、油絵なら塗り重ねを、パステルや木炭素描なら、画面を裁断して、白紙を継ぎ足し、納得するまで描き込むということを、しばしば行ったのではなかろうか。 今回の展覧会では、今しがた採り上げた2点以外に、3点の作品において、画面の上辺部ないし下辺部における継ぎ足しが認められる。たとえば、木炭素描の「靴を整える踊り子」(1887年頃)は、木炭紙いっぱいに踊り子の姿が描かれているが、その画面上辺部に、同じ紙質の木炭紙が継ぎ足され、踊り子の衣装(チュチュ)の背後の部分が、いくぶん弱々しい線描によって、簡略に描き足されている。この場合は、小さな木炭紙の画面上方の空間に余裕を与えるために、紙が足されたのであろう。また、木炭にパステルの「ロシアの踊り子」(1899年頃)では、画面の最下部に、およそ3センチ幅の紙が継ぎ足された。ここでは、左隅に赤い〈売り立てスタンプ〉が押されているのみで、他には線一本すら引かれておらず、やはり最下部の空間に少々ゆとりをもたせるために、継ぎ足しがなされたにちがいない。そして、サンパウロ芙術館所蔵のもう1点の、木炭およびパステルによる素描「化粧(入浴)する女」(1903年)でも、やはり画面の最下部に、クリーム色の同じ紙質の紙が継ぎ足されている。そこでは、青い浴槽やバスタオルの下方の部分が、新たに描き足された。一見したところ、紙の色が異なっているようだが、まったく同じ紙質であって、紙の古さによる違いが生じたのである。 ヴァレリーの言によると、ドガにとっては、作品の完成ということは考えれなかった、ということである。また、ヴァレリーは当時を追想して、「画家が、しばらく経ってから、自分が描いた絵を見て、それに再び手を入れよなどとは思わず、平然としていられるということも、彼(ドガ)には想像できなかったにちがいない。彼はよく友人たちの家の壁に長らく掛かっていた自分の絵を取り外して、アトリに持ち帰ったが、そうした絵が、もとの持ち主のところに戻ってくることはめったになかった。」(前掲書)と記している。種々さまざまな技法の実験が、ドガの〈切断と継ぎ足し〉という事態を招いたことは間違いない。しかも、同じモティーフを徹底して採り上げる彼の執拗さというのは、ある点で、モネの〈積藁〉や〈ルーアン大聖堂〉などの連作をも想起させるが、ヴァレリーの証言にもあるように、ドガに関していえば、当時の画家たちの中にあっても、その執拗な制作姿勢は、とりわけ恐るべきものであった、といいうるであろう。 小林秀雄が評論集『近代絵画』で主張した「女達の私室を覗くドガ‥‥‥彼の女達に対する侮辱と嫌悪」という、つまるところ、いささか偏った文学的な解釈、および小林説に与する批評家たちの、いっそう力点を誤ったドガに対する粗雑な解釈は、やはり勇足であろう。ドガは、裸体像であれ着衣像であれ、まず何よりも人物の微妙で独創的なフォルムを創ることに精力を注いだ画家である。その観点からいえば、ドガは、絵画芸術の自律性を強調した、マネやホードラーなどの19世紀後半の画家たちと、やはり同じ土壌に立っていたといえよう。というのも、〈画面の継ぎ足し〉をはじめとする、ドガの複雑、巧妙かつ不屈の実験は、何よりもフォルムの追求に心魂を傾けた画家の姿を、われわれにしっかりと実感させるからである。 (なかたにのぶお・学芸課長) |
マント家の人々 1879-80年
腕を拭く裸婦 1891年頃(サンパウロ美術館蔵)
腰掛ける裸婦 1891年頃(オスロ国立美術館蔵)
靴を整える踊り子 1887年頃
ロシアの踊り子 1899年頃
化粧(入浴)する女 1903年(サンパウロ美術館蔵)
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