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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.21-30) > ひる・ういんど 第24号 宋紫石と増山雪斎

研究ノート

宋紫石と増山雪斎

山口泰弘

 

 増山雪斎(1754~1819)は、江戸時代中後期の画家で沈南蘋の影響を受けた花鳥画を得意としたことで知られる。伊勢長島を領する大名増山氏の嫡男に生まれ、やがて家督を次ぐ雪斎は、もとより専業の画家ではない。風流事ごとに対する熱意が、人に優れた好事多芸の大名にした。画事もそのひとつである。

 

 雪斎の作品の大半は花鳥が占める。さらにその大半は南蘋風の濃彩による写実的な密画が占める。そしてそれに文人画風の墨筆・淡彩による写意画が若干加わる。南蘋派の画家のイメージが強い雪斎がこの種の花鳥画を描いたことは若干意外な感じを免れない。

 

 雪斎の花鳥画には、南蘋画風のもつ北宗画的要素と写意画のもつ南宗画的要素とが現れているわけだがこの様式的二面性は、雪斎の時代には、めずらしくはない。

 

 この二面性は、関東における画壇とくに南画家たちの特徴のひとつといわれる。中山高陽は関東南画の成立に大きな役割を果たした画家だが、画論「画譚鶏肋」で、「大人、至士は一家に拘らず、広く諸名家の長ぜる所を合せ見て集めて、自ら家を成せり。一家のみ守り学びては、縦ひ其の師の画に似ても皆病なりと云へり」と、諸派兼学をあるべき姿として説いている。雪斎の様式の二面性も、こうした関東南画の傾向と近いところにあったことがうかがえる。雪斎の江戸詰の家臣春木南湖は画家としても知られるが、小不朽吟社という漢詩社を通じて渡辺玄村や谷文晁ら江戸の市中で活躍している画家たちと知己になった。雪斎は南湖など文雅に通じる家臣を使っで情報の網を広げ、市中のトレンドを敏感に感知していた。雪斎の、この諸派兼学の姿勢も、したがって、流行のただ中にあったのである。

 

 ところで、雪斎の南蘋画の画法の習得経路が問題になるとき、その師として、この春木南湖の名前をあげることが多い。

 

 雪斎の場合、教育の一環として狩野派あたりの画師から基本的な絵画技法の手ほどきを受けていたことは疑いない。しかし、彼が南蘋派風の絵に手を染めるようになった切っ掛けを伝えるものは何もない。

 

 南蘋派は、中国の画家沈南蘋が18世紀のはじめに長崎に渡来し伝えた新しい写生画の影響を受けた一派で、18世紀の後半、新風を模索していた画家の心を捉え、たちまちのうちに江戸や上方に受容者を広げた。雪斎はこのような流行現象を鋭敏にうけとめたわけである。もちろん、南蘋派の作品を見る機会は少なからずあったにちがいない。しかし、大名という身分は、この流行画風の技法を基本から学ぼうとするには強い足かせとなったはずで、雪斎の命で長崎に留学し直に中国人画家費晴湖などに会ったという経験をもつ南湖が南蘋画の伝達者とされるのも理由のないことではない。

 

 天明6年(1786)33歳の年に描いた「花鳥図」(三重県継松寺蔵)は、文人画風の早筆で描かれながらも明らかに南蘋派特有のモチーフが認められる折衷的な作風をもつ。南湖が長崎に留学したのは天明8年(1788)のことである。この折衷的な作風は南湖の長崎留学以前に雪斎が南蘋派に手を染めていたことをわずかながら教えてくれる。

 

 一方、次の資料(1)は、いまひとつの仮説をつくる材料を提供してくれる。

 
(天明甲辰4年)九月十三日増山河内守殿ニテ兼葭堂餞別ノ宴ヲ開ク来会ノ人々
稲垣若狭守 長門守嫡 朽木隠岐守 伊予守嫡
子葉茂右衝門 国山五郎兵衛 杵築儒官  
首藤半十郎 西條儒宮 内田叔明 渡辺又蔵兄
東江   汶(ぶん)嶺  
伊藤長秋 立川柳川 宋紫石  
渡辺又蔵   吉田七五郎  
橋本某 長崎ノ人 浜村六蔵  

増山ハ大番頭ニテ大坂在番ノトキ坪井生(2)同道ニテ江戸ニ至ラレシナリ以上

板倉

 

 天明4年8月、大坂城勤番を終えて江戸に戻るとき、雪斎は木村兼葭堂を伴う。江戸滞在を終えて大坂に帰る蒹葭堂の送別の宴が催されるが、引用文にはその宴に招かれた人々が挙げられている。立原翠軒(3)が友人の板倉十之進という高松藩士から伝え聞いた、当夜の出席者である。

 

 当夜集まった人々は、大名の子弟、儒者、書家など多彩だが、画家としては渡辺又蔵(玄村)、そして宋紫石の名がみえる。宋紫石は、長崎で沈南蘋弟子熊斐に南蘋派の画技を学び江戸に伝えた画家として知られる。

 

 酒井抱一の兄で姫路城主酒井忠以の書いた『玄武日記』には、宋紫石父子が酒井邸にしばしば姿をみせたことが記されている。若年の抱一の作品に南蘋画風を認める説があるが、兄邸に出入りする画家から直に新しい様式を学んだことは想像に難くない。この師承関係を雪斎と宋紫石とのあいだに求めることは短絡的だろうか。雪斎が宋紫石から南蘋画風を学んだという仮説をひとつの可能性として提示しておきたい。

 

(やまぐちやすひろ・学芸員)

(1)立原翠軒『開見漫筆』中の記載。大正12年4月29日、東京駒込海蔵寺で催された立原翠軒百年祭の際、立原家関係の遺墨遺品類の展示があり、相見香雨が、その中に立原翠軒自筆(と相見が記す)一冊、『聞見漫筆』をみつけ、この増山邸での蒹葭堂餞別の宴の部分を抄記したという。「蒹葭堂と立原翠軒」(相見香南『上方』145号)参照。

 

(2)蒹葭堂は通称坪井屋吉右衛門、したがって坪井生は蒹葭堂のこと。

 

(3)立原翠軒は水戸藩の儒者。翠軒が蒹葭堂と直接の交流を持ったのは、翠軒が西遊した寛政7年が最初といわれ、それ以前の交流は明らかにできない。しかし、天明4年の秋、蒹葭堂が雪斎に従って江戸に出府することは、同じ水戸藩の儒者吉田篁とんから知らされていた。(「蒹葭堂 と立原翠軒」相見香雨『上方』145号)

年報/湯原和夫展

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