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ひるういんどno.24(1988.11.25)

表題 「意味の自由区」について

湯原和夫

 

 「意味の自由区」と云う表題は今迄多用してきた無題の意味性の広義な意味ではない。無題と云う題名から生まれる自由性は、表題を附けその方向性を暗示(制約)することから開放し、スペクティターの主体に完全にまかせその感性と想像性にゆだねることにおいて、作品を見る人々一人一人の主体性との感動の往き来する心理的対話に總べてをまかせ、總貌的に理解と感動をまつと云うことである。しかし私は、近年「1・9・8・5 知性沈下」以来積極的に表題を附け意識的にアプローチする必要を感じて能動的に或る意味では攻撃的にその姿勢を示そうとしている。しかし、今回の一連の作品群につけた「意味の自由区」は(無題のもつ意味性を一部には包含するものの)従来の美意識をこえ異次元のもつ広大な精神的空間を積極的に提示しようとするアグレッシブな姿勢によるためである。無題と云う表現をとるタイトルが現われたのは立体派以後構成主義的運動の当然の帰結であり、その作品の即物的存在に自由を発見する純粋性に意味を発見しようとする精神の結果であったろうし、私もこの論法による自由性にかなりの比重を感じてこれによったわけであるが、20世紀前半の抽象的表現の展開、ダダ、シュールを含めた芸術運動の軌跡は未だそのアンチテーゼとなった世界の従属物といえようし、今これをふりかえって見るとその源はルネッサンスに端を発しているのではなかろうかと思い当る。つまり、人間解放でありルネッサンスであった筈の14・5世紀以来のヨーロッパ美術は一般に視覚的に神学的説明において具体的視覚的に容易な世界を造り出し近代美術の展開を現在に迄導いて来たのだが、その源はルネッサンス期に確立された遠近法が一因であることに異論はない筈である。しかし、この遠近法的表現はキリスト教実践的表現であり全地球的視野から見てもヨーロッパ旧大陸内での世界観の表現であったのではなかろうか。と同時に、それ以前つまり中世時代迄もっていたもっとひろい意味での精神的神秘性に富んだ造形空間を失わせて表現を非常に限定してしまったと云うことが出来よう。立体派以後の現代美術の表現のたたかいは、とりもなおさずこの遠近法の束縛からの解放の努力の軌跡であろう。しかし現代の直面している現実は全く新しい異次元の空間(精神性)を要求していよう。ジャン・ポール・アンマン、ボイス、クーネリス等々によるヨーロッパ文化の悲劇との指摘による様に、人間は今世界的にその精神性の根源に不安を見出して全人間的意味においてこの確立をせまられていよう。かのグロワーズ達が共有していた様な精神世界、カオスに満ちた一見無秩序に見える異次元の世界に一つの開放口がある様に想われる。それはあらゆる制約を排除し人間を全く能動的肯定的方向においてのみとらえようとする全くオプテミズムに満ちた世界であり、彼等の精神世界をカオスに満ちたと見るのは体系化された世界観によるもので、これに反するものはすべてバーバルとして来た地中海的キリスト教的世界観の一方的解釈であり、それが現代の宇宙的全地球的規模の展開の中において矛盾に動転しているのが現在の状況と云うことが出来よう。ヨーロッパの体系化された観点から見ると、老子の谷神(コクジン)の様な発想も又バーバルの世界にかたづけられるにちがいない。しかし歴史の現実は容赦なく複雑に展開し、常によりきびしいかたちで思索することを要求している。私が今回とった「意味の自由区」の意味は、従来の一切の造形的概念を否定し唯ひとつの作品が孤立した物体として地上に存在することにより、広い精神的波動を自由に増殖し肯定的方向性においてあらためて発展させようとする意志の解放地と云う意味であり、精神をポジティブな意味でとらえ無限の精神世界を解放しようとする能動的空間と云う意味での「意味の自由区」なのである。

 

(ゆはらかずお・彫刻家)

 

年報/湯原和夫展

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