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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.21-30) > ひる・ういんど 第23号 ドーデとティソ ジェームズ・ティソ展から

ジェームズ・ティソ展から">

ドーデとティソ ジェームズ・ティソ展から

荒屋鋪 透

 

 アルフォンス・ドーデの短編集「月曜物語」に『盲目の皇帝』という話が収められている。若き日のドーデと思われる青年が晩年の日本学者シーボルト翁と彼の蔵書中にある日本の悲劇を尋ねて、1866年のミュンヘンを訪れる物語である。この短編は普墺戦争に巻き込まれた南ドイツの小国家バイエルン王国の歴史を語る上で貴重な証言となっているが、シーボルトが所蔵する日本コレクションの克明な描写によって、ドーデの日本趣味を知る格好の作品でもある。主人公の青年は老学者の案内で日本の版画・地図などと共に江戸時代の商家の模型を見ている。興味深いのは、フランス人の青年がバヴァリアと日本に共通した情趣を感じるくだりだ。「日本とバヴァリア、私がほとんど同時に知ったこの二つの新しい国、一方を他方を通じてながめていたこの二国は、私の頭の中で混ざり合い、ごちゃごちゃになって、何かしらぼんやりとした青の国、夢の国となってしまった……」(桜田佐訳「月曜物語」岩波文庫)この短編集が出版された年、1873年にドーデは小説家フローベールの部屋でやはり日本趣味で知られる作家エドモン・ド・ゴンクールに会っている。つまりドーデのジャポニスムはゴンクールに出会う以前からのものであることが証明される訳だが、1860年前後のドーデと画家ジェームズ・ティソとの交友を知るものには先に引用した青年の告白は、19世紀後半の芸術家の日本趣味について考える時、含蓄のある証言となってくるに違いない。一昨年、ジェームズ・ティソの絵画におけるドーデ文学の影響についての論文を上梓した、ティソ研究家ウィラード・E・ミスフェルトによれば、南仏ニーム出身の小説家と、フランス西部の港町ナントに生まれた画家は、お互いにまだ無名の時パリで知り会ったという。(W.E.Misfeldt,”James Tissot and Alphonse Daudet:Friends and Collaborators”,Apollo,February,1986.pp.110-115,)1858年に描かれたティソによるドーデの肖像も残っている。翌年冬ドーデはボナパルト街39番地に移るが、後にティソもサン・ジェルマン・デ・プレ教会の右隣にあったそのアパートに引っ越して来る。当時ドーデはマリー・リューという女性と恋愛関係にあり、ミスフェルトはティソの一連の「ファウストとマルガレーテ」を主題に採った作品のモデルにドーデとマリーを見ている。

 

 『盲目の皇帝』が出版された頃、ティソは3点の「日本の工芸品を眺める娘たち」と題した油彩を制作しているが、今回の展覧会に出品されたのはその1点である。娘たちは左側の屏風を見詰めている。その屏風の図柄がもとの画面に極めて忠実に再現されているらしいことから、私たちはそれが「平家物語:一の谷・屋島合戦図」屏風であることを知る。俯瞰的に捉えられた武者の群像表現などから、16世紀後半から17世紀前半に大和絵系の画家によって制作された屏風であると考えられ、智積院・大英博物館・フリーア美術館に所蔵されている同主題の作品との類似を見せている。ここで思い出して頂きたいのは、ドーデの短編に引用された「16世紀の日本の悲劇」である。シーボルト翁からその断片を開いただけで、いちフランス青年に戦火のミュンヘンに向わせた悲劇とはそも一体何であったのだろうか。ドーデによるとそれは『盲目の皇帝』と題され当時欧州ではまだ誰も知らない文学作品であったという。小説ではシーボルトは友人の作曲家ジャコモ・マイヤベーアのために翻訳したことになっている。青年はミュンヘンのビヤホールで老学者自身の歌う『盲目の皇帝』の歌を聴いていることからこの悲劇は韻文らしく思われるが、その謎を解く鍵のひとつはシーボルトが作曲家マイヤベーアに贈るつもりで翻訳した悲劇である点だ。作曲家の死によって贈呈は実現しなかったが、ヴァーグナーにも影響を与えたマイヤベーアは『エジプトの十字軍』や『ユグノー教徒』といった史劇的グランド・オペラで知られた作曲家である。ベルリンのユダヤ人である彼はその生涯の大半をパリで過ごした。ドーデもそのオペラを聴いていたかも知れない。ふたつめの鍵としては本短編の主題が挙げられよう。ヴュルツブルグに『盲目の皇帝』があることを知った青年はシーボルト夫人がミュンヘンに届けてくれるのを待つが、それが届けられた翌日の老学者の死去によってその「日本の悲劇」を見ることなくミュンヘンを去る。「『盲目の皇帝!』………その後、われわれはドイツから持ち帰ったこの表題がちょうど当てはまるようなこ他の悲劇が演ぜられるのを見た。血と涙に満ちた痛ましい悲劇、しかもそれは日本の物ではなかったのである。」(桜田訳)勿論この悲劇とは普仏戦争からパリ・コミューンに至るフランスの悲劇である。青年はその気配を1866年のミュンヘンで敏感に感じとる。画家ジェームズ・ティソはその戦争のために運命を狂わせた芸術家のひとりであることを忘れてはならないだろう。1871年のコミューン終結の後、彼はロンドンに逃れ薄幸の夫人、ミセス・ニュートンー人をモデルに独自の肖像画を制作し続ける。「日本の工芸品を眺める娘たち」に描かれた屏風は偶然「平家物語」であったのかも知れない。しかし、ドーデとティソとの交友そして青年ドーデのバヴァリア旅行の収穫である作品『盲目の皇帝』を知る者には、未だ見ぬこの幻の名作は限り無く興味をそそる。

 

(あらやしき・とおる 学芸員)

 

作家別記事一覧:ティソ

ジェームズ・ティソ日本の工芸品を眺める娘たち(部分)

ジェームズ・ティソ

日本の工芸品を眺める娘たち(部分)

 

1870年頃

 

 

平家物語 一の谷・屋島合戦図

平家物語 一の谷・屋島合戦図

紙本金雲著色

 

六曲一双

 

天真寺

 

 

ジェームズ・ティソ アルフォンス・ドーデの肖像

ジェームズ・ティソ

アルフォンス・ドーデの肖像

 

1858年

 

鉛筆・紙

 

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