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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.21-30) > ひる・ういんど 第22号 画師としての曾我蕭白

画師としての曾我蕭白

山口泰弘

 

 江戸時代の中期以降京都を地盤に活動した画師について調べるとき「平安人物誌」という人名録を使うことがある。序の記述によると、この人名録は画師だけではなく、ひろく京都に遊学を志す者のために、学者・書家・簑刻家・卜筮師など、当時京都で名声のあったさまざまな分野の師匠の名と住所を採録したものである。師匠の立場からすれば、この人名録に名を載せれは一応京都でその道ではひとかどの人物であると認められたことになる。また、現代のわれわれからすれば、ある師匠が在世当時どの程度の評価を一般から受けていたかを知る重要な資料にもなるわけである。この「平安人物誌」は明和4年(1767)にはじめて出版され、年号が明治と改められる慶応3年(1867)まで9版16回も版を重ねている。その人気を知ることができよう。

 

 さて、曾我蕭白は、生前出版されたふたつの版のうち、安永4年(1775)の第二版にのみ登場する。この年蕭白は46歳である。

 

 この第二版には全部で20人の画師が掲載されている。その掲載順序は当時の人気度によるという説があり、それを信じるなら、この人名録はいわばベスト・アーティスト・ランキングでもあったわけだが、蕭白は、円山応挙にはじまり伊藤若沖、池大雅、与謝蕪村とつづくランキングの15番目、下から6番目にやっと登場するといった具合いで評価はかならずしも高くない。明和4年に出版された初版には蕭白の名はみあたらない。明和4年といえばすでに、「林和靖囲屏風」(宝暦10年・三重県立美術館)のような年紀のある作品や今日代表作とみなされる作品の多くをすでに描いていて、私たちの感覚では、画師としての力量は認められていて当然のようにも思われるのだが、毒を含んだ作風が京都の美意識にいまだ拒絶反応をあたえていたのだろうか。安永4年版にその名が登場したということは、その毒に対して京都の市民の間に免疫をもつ鑑賞者がようやく育ってきたことを示すのかもしれない。 蕭白の場合、生涯や行動はさまざまな伝説や逸話で粉飾されていて、いまとなっては、実像と虚像を弁別することは容易ではない。蕭白に対する記憶が過去のものになった明治時代の中ごろから大正時代に入ると、近代的個性を賞揚する一部の芸術家や文学者によって蕭白が見直されはじめ、彼の奔放な性格や奇矯な作画態度が必要以上に誇張されて紹介されるようになる。いまからみれば、むしろ実像が虚像の下に掃き込まれてしまうような作業がなされていたようにも思われなくはないが、いわば“早すぎた近代的個性”といったものを粉飾された蕭白像のなかに発見し、共感を覚え、敬愛する先人に仕立てる喜びのようなものが彼らをそう駆り立てたのかもしれない。

 

 ところで、昨年の「曾我蕭白展」を準備していくなかで私たち担当者は、興味深いいくつかの作品に出会った。興味深いというのは、蕭白の代表的な印章が捺されているにもかかわらずかならずしも蕭白の作品とは認められない、という少しミステリックな体験をさせてくれたからである。それらの作品のうちいくつかはあきらかに蕭白とは異筆と認められるものであり、いくつかは真筆か異筆か判断に戸惑うものであった。後者には、蕭白筆に直接帰するにはあまりに生硬でなにか職人仕事による工芸品を想わせる作品や、円山四条派の影響を感じさせる柔らかな寡囲気をもった風景図などがあった。これらの作品のうち、いくつかは実際に展示室に並ぶことになった。

 

 絵画を自己表現の手段のひとつと見なしてほとんど独力で絵画を完成させる近代の画家に対して、近世以前では、画師は弟子を使って製作を分担させるということが当然のこととして行われた。「平安人物誌」に登場する円山応挙や伊藤若沖の場合も例に漏れない。

 

 「平安人物誌」によると、安永4年当時蕭白は上京に居を構えていたという。ほかの画師たちが町名まで詳しく住所が載っているのに対して、「上京」 とだけ簡単に記されているところに何か含みがあるのかもしれないが、とにかく、京都に定住していたことはたしかと考えてよく、またおそらくは、弟子を何人か雇って、小さいながらも自らの工房を経営していたと思われる。

 

 蕭亭、蕭月、自如など、師匠である蕭白の名前から一字をもらって一人立ちした弟子の名や作品が現在知られているが、真筆か異筆か私たちを戸惑わせる作品のいくつかは、おそらく、彼らや他の弟子たちが製作に何らかのかたちで関与した結果と考えられる。

 

 弟子の手が加わっているとすれば、作品に蕭白自身の個性が直接反映されるわけではない。まるで蕭白そのものといった奇矯さを失っていない上記の作品は、だから、蕭白独特の奇矯な作風を売り物のひとつとする、工房製“蕭白ブランド”の作者と考えることができるかもしれない。

 

 蕭白は本姓を三浦氏といったらしいが、どのような経緯で曾我を名乗るようになったかは定かでない。曾我派は室町時代の代表的な画系であるが、曾我派とりわけ大徳寺真珠庵の襖絵の作者に比定される曾我蛇足の作風評価は、江戸時代を通じて、江戸時代前期に狩野永納がまとめた「本朝画史」の内容を祖述しているようなところがあり、そこに描かれた曾我派のイメージ・・・奇矯な作風・・・が一般に流布していた。

 

 18世紀に入ると、まず、京阪でやがて江戸で、雪舟をはじめとする室町時代の水墨画や中国の宋元画を古典として崇拝する一種のルネサンス現象が興り、今日雪舟派と呼ばれる画師たちがこの流れの中に現れる。山口雪渓・望月玉蟾・桜井雪館などこの派の代表的な画師たちは、おそらく、限りある古典絵画の供給と需要のアンバランスを埋める類似品製作者の一面ももっていたと思われる。彼らの作風は古典を彼ら流に解釈した擬古典的作風であるが、蕭白も当時定着していた曾我流のイメージをかなり意識的に採り入れて自らの作風を造り上げたに違いない。天保2年(1831)に刊行された白井華陽の「画乗要略」など江戸時代後期の画史類における蛇足と蕭白の作風評価に共通する部分があることは興味をそそる。

 

 江戸時代の画壇は狩野派をはじめとする官画派と町画師との二層構造をとつていたが、蕭白のような町画師にとって、曾我派を僣称する自由は大きかったに違いない。曾我派の末裔を名乗って登場すること自体、当時の流行現象を巧みに利用する蕭白の俊敏さが窺われ、かならずしも個性に埋没するタイプではなかったように思われるが、工房製作など、蕭白の製作活動の実態がもう少し明らかになれば、蕭白に纏わる虚像がさらに剥がれ、近世的な一画師としての姿が現れることになるかもしれない。 

 

(やまぐちやすひろ・学芸員)

 

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