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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.21-30) > ひる・ういんど 第22号 オデッセウスの帰還──「クロマトポイエマ」をめぐって

オデッセウスの帰還──「クロマトポイエマ」をめぐって 

土田真紀

 

 「クロマトポイエマ」は詩人西脇順三郎と彫刻家飯田善國の合作になる詩画集である。西脇がこの詩画集のために書き下ろした18篇の英詩を絵画化するにあたり、飯田は、アルファベット26文字を各々1つの色に置き換えるという全く新しい方法を考案した。飯田自身の回想によれば、それは「71年の夏、九十九里浜で沖の波と空と雲をぼんやり眺めながら、突然天啓に撃たれ」て浮かんだという。しかしこの従来にない、言葉と色彩が等価の関係で結び付いている詩画集は、果たしてそうした偶然の産物なのだろうか。むしろそれは彫刻家飯田善國の本質に触れる意味をもつ記念碑的な作品であり、それにはこの詩画集が西脇との関わりを通して生まれてきたものであることが深く関わっているのではないだろうか。

 

 まず「クロマトポイエマ」そのものに注目したい。上述したように、詩の言葉を構成している文を色に置き換えるという方法がとられている。この方法は、一種シュールレアリスム的な偶然性の要素をはらみつつ、また文字(音)と色とを象徴主義のコレスポンダンスさながらに取り結びつつ、色をそれ以外に何ものをも表わさない即自的な存在として、言葉から自律させようとするかに見える。ここに言葉と色とが真の意味で等価といいうる根拠が成立する。

 

 しかしながら、詩は単に言葉という素材を提供するに留まっているわけではない。文字と色とが一対一の照応関係で結ばれているという以上に、反面では、彼は実は西脇の詩の特質を忠実に絵画化したとも捉えられる。まず、言葉を文字(=音)の単位にまで分解するという着想自体、従来の詩にもまして、意味よりもはるかに音の方に傾いている西脇の話そのものの特質によっているといえる。「クロマトポイエマ」にはそれに加えて幾つかの方法がとられている──色の帯で共通の文字を結ぶ、詩の流れにしたがって言葉を順に色の帯で結び付け、帯の長さや折れ曲がり具合によって詩のリズムや緩急、語感を視覚的に表現する、文字の登場頻度をグラフ化するなど。大岡信が「詩の音韻分析の基礎作業」と分析したように、これらの詩の生命とも言える音の響きに内在する法則、本質をむしろ視覚的に明らかにしようとする試みと言える。ある西脇についての文章の中で飯田が西脇の詩集『近代の寓話』の中の「羅馬」という一篇を取り上げ、分析した後、次のようにくくっていたのが思い出される。「この十行の構成の複雑さと色彩の豊富と、イメージの転換の自由さと、リズムの流れの緩急と、時間性と空間性の転置のおもしろさなどの変幻自在な組み合せから生まれる柔軟な詩的価値そのものを、翻訳された絵画の中に等質に表現することは、殆ど不可能であろうと言いたかったからである」。ここで試みられているのはまさにこの「殆ど不可能な作業」に他ならない。文字を色に置き換えるという方法が天啓のように飯田の頭に閃いたものであったとしても、全体として「クロマトポイエマ」は、ウィーン時代以来、彼が西脇の詩に対して抱き続けてきたこうしたイメージの結晶のようなものなのである。彼は、詩の内容ではなく、むしろ詩の特質、すなわちその言語表現としてのラディカルな性格そのものを絵画表現に置き換えることを志したのである。この意味での詩の忠実な絵画化がこの詩画集の狙いといえる。そのためには画の方もまた自律した、同等にラディカルな性格をもつものでなければならないのである。

 

 彼がこうした詩画集を制作したのは、一つにはもちろん、ウィーンにいた頃、毎晩『近代の寓話』を読むことを習慣としていたと言うほどの西脇への並々ならぬ傾倒がある。しかしそれだけなのだろうか。飯田が西脇について語った文章の一つ「永遠に待つペネロペ─西脇順三郎絵画論序説」をここで参照してみたい(先の引用もこの文章による)。これは1970年10月、すなわち彼が「クロマトポイエマ」の制作に掛かる直前(飯田が西脇から英詩を受け取ったのは71年の春ということである)に書かれている。

 

 飯田善國にとっての西脇順三郎は、詩人であると同時に、18歳で画家を志して上京し、藤島武二と黒田清輝に認められ、白馬会入会を勧められながら、当時の画壇の自然主義的な傾向が合わず、ついに絵の道を断念した〈ならざる画家〉 でもある。ここに飯田はホメロスの英雄オデッセウスとその妻ペネロペの関係になぞらえた悲劇を見出す。「西脇順三郎の中のオデッセウスとペネロペ。/詩的精神の永遠の放浪者としてのオデッセウス。/絵画精神の永遠に待つ者としてのペネロペ」。飯田善國にとっての西脇像はこの三行に恐らく集約される。西脇はプロフェッショナルとしては詩人を選び、画家を断念した。その結果、英雄的な冒険を続けるオデッセウスとしての詩的精神は日本の近代詩史上に稀なる足跡を遺したが、ペネロペとなった絵画精神は、いわば余技としての絵画のなかに、あるいは彼の詩に現前している豊かな絵画的イメージとなって姿を現わすこと以外の道を閉ざされてしまった。両者が共にオデッセウスとなること、すなわち詩に匹敵するだけの冒険を絵画においても遂行することは、後者においてもかなりの才能に恵まれていた西脇をもってしても可能ではなかった。オデッセウスとペネロペの関係は「絵画精神のペネロペとしての西脇順三郎は、文学精神のオデッセウスとしての西脇順三郎の帰還を永遠に待っている」という悲劇的なものにならざるをえなかった。しかし西脇という存在にはその両面が欠かせなかったのである。

 

 ところで西脇のケースがここまで悲劇的に捉えられるのは、とりもなおさず、彼がそこに、彫刻家と詩人の両面をもつ自分という存在を二重写しに見ているからではなかろうか。この中でそうはっきりと述べられているわけではないが、たとえば、西脇の「詩人になるか画家になるかを決める事情」を考察しつつ、飯田が自身の経緯にも触れるとき、両者の運命は確実に重ね合わせられている。ただし飯田善國のうちでは、文学精神と絵画(彫刻)精神の立場はちょうど逆転しているから、それは詩的精神にとっての悲劇と言えよう。意図的に寡黙であることが課されているように感じられる彼の彫刻作品、とりわけ1960年代末のステンレスティールの鏡面磨きによる「作品No.」のシリーズ。飯田善國が絶えず言葉によっても表現を続けながら、常に彫刻家としか名乗っていないことなど。彼のうちではむしろこの悲劇が意志的に選びとられているように感じられる。いずれにせよ、飯田善國という存在は、西脇順三郎のそれとちょうど陰画をなすものであることが理解されよう。

 

 「クロマトポイエマ」における詩の忠実な絵画化とは、西脇の詩のなかにすでに輝いている絵画精神に則って、それに等質の絵画表現を見出すことにより、二人の詩的精神と絵画精神とを綜合し、詩と画の両面において果敢な冒険を遂行しようとする試みなのである。絵画精神と詩的精神とが互いを完璧に支えあって成立した詩画集。それが「クロマトポイエマ」なのである。とすれば、そこにおいて、無意識的にせよ、彫刻家が意図したのは、他ならぬ「オデッセウスの帰還」であったとは言えないだろうか。

 

(つちだまき・学芸員)

 

年報/飯田善國展

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