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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.21-30) > ひる・ういんど 第21号 蕭白画の真贋――曾我蕭白展から――

蕭白画の真贋――曾我蕭白展から――

毛利伊知郎

 

 開館5周年を記念して、三重県立美術館では伊勢地方と縁の深い江戸時代の画家・曾我蕭白の国内所在の主要作品をほぼ網羅した曾我蕭白展を開催した。

 

 その準備段階において、私達担当学芸員は真贋取り混ぜて様々な蕭白画に出会った。また、展覧会開催後も、一般の方々から蕭白作品に関する情報が多数寄せられ、多くの作品が当美術館に持ち込まれたが、それらの中にも、真作に混じって数多くの贋作が含まれていた。

 

 蕭白が在世中に何度か訪れたと伝えられるこの地方に、蕭白筆とされる贋作が流布していることは、十分予想されることであるが、贋作の数の多さには、改めて驚かされた。

 

 蕭白に対する本格的な評価が日本で行われ始めたのは、この20年来のことであり、昭和40年以前に発行された日本美術史関係の書物に、曾我蕭白の名前を見いだすことは困難である。

 

 では、近年に至るまで、私達の先祖は蕭白作品には、本当に関心を示さなかったのだろうか。確かに、明治20年代に質の高い蕭白画が数多くアメリカに持ち出されたのは事実であり、また国内の所蔵者を見ても、蕭白作品を所蔵している美術館・博物館はごく僅かで、作品数も池大雅や円山応挙など蕭白と同時代の画家の作品とは比較にならないほど少ない。

 

 しかし、明治20年代から大正初期頃の美術雑誌には蕭白関係の記事を数多く見ることができ、また現在東京芸術大学などに所蔵されている主要な蕭白作品が明治中期に収集されていることなどからすると、この頃には蕭白も美術関係者の間でかなり注目を集めていたことと推察される。

 

 また、この地方で旧家の所蔵する掛軸を拝見すると、その中には蕭白筆とされる軸を必ずといっていいほど見い出すことができ、根強い人気を持っていたことが知られる。また、この近辺では「伊賀蕭白」と俗称される蕭白風の作品も蕭白画として流布していたようである。

 

 こうしたことは、伊勢地方だけに限られたことではなく、やはり蕭白が訪れたと伝えられる兵庫県の播磨地方でも似たような状況を見ることができ、高砂市を中心とした地域では、蕭白の贋作が数多く伝えられている。従って、全国的な規模ではないにしても、民間レベルでは、在世当時から蕭白画にはかなりの需要があり、その後も、蕭白作品が大いに持てはやされて、数多くの贋作が作られた時期があったと考えるほうがむしろ妥当であろう。

 

 前述したように、蕭白については、まだ研究め歴史が浅く、知られていない作品も多い。また真贋判別の基準も十分に認知されていないために、判定lこ困難を覚える蕭白画も少なくない。

 

 また、蕭白の場合は他の画家とは事情が異なり、現時点では贋作と考えざるを得ない作品の中にも、蕭白の全貌を解明する上で、重要な参考となる資料が含まれているようで、今後の蕭白研究にあっては、そうした特殊な贋作も含めて、斎自作品に対する徹底的な調査が必要とされると思われる。

 

 では、蕭白の贋作にはどのようなものがあるのだろうか。第一にあげられるのは、幕末から明治時代以降に制作されたと推定され、蕭白風ではあるが、やはり描かれた時代を反映する特徴や制作者の個性が現れていて、判定にさほど困難を伴わないものである。第二は、蕭白在壮時と同時か、あるいは年代的にそれほど時代が下らない頃に作られた、明らかに質の悪い作品である。

 

 これら二つのグループに属する贋作は、蕭白研究においても特に問題にはならない。

 

 贋作であることがほぼ間違いないと思われる作品で私達を悩ますのは、描かれた時代はおそらく蕭白と同時代頃で、画技も非常に達者で、作風も蕭白真作と甲乙つけ難く、また落款の書体も蕭白白身のものと酷似し、捺された印章も真作に捺された印と合致する、そうした作品である。

 

 こうした作品は、確かに蕭白の真作と非常に似ているけれども、画風にどこか違うところが感じられ、蕭白その人の筆とは断定できないのである。しかし、それらは上記の第一・第二グループの贋作とは明らかに性格が異なるのである。

 

 では、こうした作品の存在は、何を意味しているのだろうか。まず思い浮かぶのは、蕭白周辺の画家、すなわち蕭白の弟子、あるいは蕭白工房による制作である。

 

 明治後期に蕭白に関する詳細な資料を残した桃沢如水は、蕭白の弟子について、画風上の推測からではあるが、奥田龍渓、頑極禅師、二日坊宗雨、田中岷江をあげている。

 

 蕭白の門弟のことを伝える文献史料はなく、詳細は不明であるが、「蕭白」あるいは「自如」という名の画家が粛白周辺にいたことは確かで、両者の落款が記され、画風も蕭白のそれと非常に近い作品が現存している。

 

 上記のような真筆と判別がつき難い作品の中には、あるいは蕭白の名を使って、蕭白ら門人が制作したものも含まれていることは十分に予想できることである。また、他にもしばしば例があるように、蕭白が工房を構えて、実際の制作の大部分を弟子達に任せた、いわゆる工房制作を行っていた可能性も考えられる。

 

 蕭白の生涯については不明な点が多いために、こうした点についても、現在のところ推測の域を出ないけれども、真筆と判別のつき難い作品がかなりの数量存在すること、またそれらの作品に捺されている印章に偽印が少ないこと等から考えると、現在蕭白筆として世間に流布している作品の中には、蕭白工房ないしは門人によって制作された作品も少なからず含まれていると考えて大過ないと思われる。

 

 こうした点を含め、蕭白の作画活動の全貌の解明には、粘り強い地道な調査を要することと思われる。現在数多く見ることのできる蕭白の様々な贋作は、作品それ自体は、必ずしも芸術的には優れた作とは言い難いものがほとんどであるが、それらの中には、長く正当な評価を受けることのなかったこの画家の全体像を構築していく作業を進める上で、他の同時代の画家の贋作とは少し異なった意味を持つ作品も含まれていると考えられるのである。

 

(もうり・いちろう 三重県立美術館学芸員)

 

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