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サロン・ド・メの画家たちと日本の洋画家たち ─大原美術館所蔵品展 20世紀・世界の美術─から

中谷 伸生

 

 今回の大原展で紹介された作家たちの中で、かつては美術雑誌で大々的に紹介されはしたものの、今日ではまったくといっていいほどに、忘れ去られてしまった画家たちがいる。すなわち、マチスの大胆な色面を一種の立体派風の手法を駆使して構成したアンドレ・マルシャン、迫力は弱められたにせよ、立体派の堅牢な形態を野獣派風の色彩に混成縫合させようとしたエドュアール・ピニオン、あるいは叙情的で温柔とでも形容すべき抽象を誇るギュスターヴ・サンジェらの〈サロン・ド・メ〉に参加した面々である。これらの画家たちと日本の画家たちとの直接の、あるいは間接的な交流は、実に数十年前に遡る。

 

 1951年に日本で、「サロン・ド・メ東京展」が開催され、キュービスムとフォービスムを結合させようとした半具象、半抽象のマルシャン、ピニオンを始めとして、アンドレ・ミノーや、キリコの影響を受けたリュシアン・ワ一トーといった、当時フランスで少なからず話題を呼んだ新進の画家たちが紹介され今日から見れば驚くべき評判となった。戦後に制作活動を開始した日本の多くの若い洋画家たちにとって、彼らの作品、より正確にいうなら、彼らの制作活動の志向するところが、共感に値するものであったようである。実際、50年代に入った頃、荻須高徳、土方定一、今日出海らの画家、評論家たちが頻繁に作家のアトリエを訪問して、日本の美術家や愛好家たちに、サロン・ド・メの画家たちを繰り返し紹介している。また当時の『みづゑ』、『美術手帖』、『美術批評』などの雑誌には、滝口修造、和田定夫、末松正樹、植村贋千代、花田清輝らが、これらの画家たちについて精細な論評を行うなど、まるで美術界はサロン・ド・メ一色といっても過言ではないと思えるほどの状況であった。

 

 戦後のフランスにおいて、マルシャンやピニオンが、あたかも久しく待望された新星のように注目されたのは、彼らの作風が、戦前からの巨匠ピカソ、マチスを踏まえつつ、新しい様式の実験模索によって、堅実な成果を上げつつあると見えたからに他ならない。極端な様式を拒絶するフランスの社会にあって、これらの作家たちの作風は、穏健なデリカシーを含むとともに、新局面を切り開く可能性を裡に秘めていると考えられたようである。

 

 もうひとつ見逃してはならないのは、マルシャンにしてもピニオンにしても、多くのサロン・ド・メの画家たちが、イデオロギー的に保守の陣営であった美術団体「フォルス・ヌーベル」に反旗を翻した若手画家の団体である「フランス伝統青年画家」に属していたことであろう。戦後のフランス社会が、対独協力派、すなわちヒトラーに共感したフランス人に対して、徹底的な拒絶反応を示したことは、今さら述べるまでもなかろう。ユダの裏切りをテーマにした小説『藁人形の犬たち』を著し、第2次大戦の終結とともに、内面の地獄を見据えて自殺したフランスの小説家、ドリュ・ラ・ロシェルの特殊な例を挙げるまでもなく、フランス社会は、ナチス協力派の芸術家を、作品の良し悪しは別にして、激しく非難した。1953年に開催された「サロン・デ・チュイルリー」展に、ドラン、ヴラマンクらのナチス協力者と見なされた作家たちが復帰したとき、左翼系の新聞レットル・フランセーズは、当然のことながら、手厳しい追求の姿勢を崩さなかった。つまり、戦後間もないフランスにおいては、反ファシズムの立場を鮮明にしたマルシャンやピニオンといった画家を受け入れ易くする社会の土壌が形成されていたのである。断わっておくが、私はここで、ピニオンらが、作品の力量ではなく、イデオロギーという観点から人気を博したということを、必要以上に強調しているのではない。ただそのことは、軽視できない事実だと思うだけである。

 

 ともかく、このような情勢のもとに、〈サロン・ド・メ〉の画家たちが、日本で大きく紹介されたのであるが、日本の洋画家たちは、これらフランスの若い作家の絵画に、どのような関心を抱いたのであろうか。いうまでもなく、フランスと同様に日本にあっても、ピカソやマチスの呪縛から自己の作風を解き放とうとする志向が強く意識されていたことは事実である。しかも、戦後の挫折感漂う時期において、キュービスムやフォービスムを咀嚼しつつ、抽象的な造形を求めるとともに、一方で、ヒューマンな人間像を見失うまいとする日本の洋画家たちの態度は、森芳雄の「二人」(1950年)や海老原書之助の「殉教者サン・セバスチャン」(1951年)を思い浮かべるだけで、充分に納得がゆく。海老原、井上長三郎、山口薫、中本達也、田中阿善良、小磯良平、さらに三重の足代義郎らが描いた50年代の作品を眺めてみれば、〈サロン・ド・メ〉の影響が如何に大きかったかは、一目瞭然であろう。 ピニオンやマルシャンらの絵画が、戦後のフランス社会の、ある意味で特殊な状況(私にはそう思えるのだが・・・)から評価されて、それが直接日本に紹介され、若い洋画家たちに決定的な感化を与えたことを改めて考えてみると、複雑な気がしないわけでもない。というのも、限定された造形志向の枠内では、ある程度共通した狙いがあったにせよ、当時の日本の洋画家と、〈サロン・ド・メ〉に参加したフランスの画家との間には、自明のことながら、本質的に理解しえない大きな間隙が存在していたからである。

 

(なかたにのぶお・学芸課長)

                   マルシャン 『日光浴』

マルシャン

『日光浴』

 

1950

 

 

ピニオン『オスタンド港の防波堤』<

ピニオン

『オスタンド港の防波堤』

 

1949

 

 

ピニオン『農夫』

ピニオン

『農夫』

 

1950

 

 

海老原喜之助

海老原喜之助 『殉教者』

『殉教者』

 

1951

 

 

足代義郎 『浜辺』

足代義郎

『浜辺』

 

1957

 

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