石崎勝基 今回展示された井上武吉の素描(例えば図1)を見て、具体的な設置(インスタレーション)なり立体の図面を認める者はまずいまい。思い起こされるのは寧ろブレーの球形の建築図(図2)や、創世の過程を綴ったタウトの『宇宙建築師』の一葉(図3)であろう。この二人が建築家であり、しかも上の例が建築としては紙の上にしか存在し得ぬものである事は、井上における立体と素描との関係をも照らし返すかも知れない。 ブレーの素描がそれでも建築としての体裁を整え写実的に描かれているのに比して、井上のそれはより抽象的で神話の相貌を有し、地の底は仄暗い深みに蠢く。 他方、曾ての『天をのぞく穴』(彫刻の森美術館)のための素描(図4)では、地上の二つの箱に抑え付けられるが故に劫って地底の隧道が一層不定形に増殖したのだが、ここで弧はその緩やかさをもって闇を保護すべく、両者は調和の相にある。これは井上の立体での“BOX”連作から、穴と円乃至球による“my sky hole”連作への移行に呼応している。 前漢には成立していた蓋天渾天の二説は天円地方と称し、天を円乃至球、地を方形と見る。古来宇宙の外縁が弧を描くとされたのは、世界が有限であれ無限であれ、円が有限と無限との境界をなすものと考えられたからであろう。対するに方形そして箱は、人間が生きる明瞭に区画された秩序(コスモス)と応ずる。 デュシャンやコーネルの箱が内に何かを容れるものであり、ジャッドの箱がその外形に関心を集中していたとすれば、井上の“BOX”就中“溢れる連作における箱は内と外との相克から成り立っていた。“my Sky hole”における球は、外界をその表面に映す事によって内と外とを融即する。 球なす鏡は蓮華蔵世界或いはライプニッツの単子(モナド)やボルヘスのアレフにおける如く、微塵が三千世界を、刹那が永劫を含む重々無尽の相を映す。 美術の歴史からは、ルネサンス・ヴェネツィア派の作品に現れた平面鏡が人間の視点から見た透視法的空間に、ネーデルランド絵画における凸面鏡が神の視点から世界をパノラマとして俯瞰する空間に呼応していたのが、近世での人間の視点の定着を経て、十九世紀のアングルからキャサット及びマネそしてボナールに至る平面に即した鏡の用法以後、鏡そのものが主題化される現代において、古ネーデルランド型凸面鏡とその宇宙的な視野に交錯したものとも見倣せよう。 立体が鏡の力によって拡がりを取り込んだのに対し、素描はより直截に宇宙開闢論の趣を呈している。弧は重ねられる事によって、時空の生成を物語る。タウトに比べて精緻に仕上げられたその画面は、〈間〉を重視した設置(インスタレーション)からは独立した領域で、平面として形式の充実を示している。 (いしざき かつもと・学芸員) |
図1 井上武吉my sky hole 86-道 No.1 1986年
図2 エティエンヌ=ルイ・ブレー自然/理性に捧げられた神殿の断面図 1793年頃
図3 ブルーノ・タウト雨後の大地と虹 宇宙建築師』より第20景 1920年
図4 井上武吉my sky hole No.8 1979年
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