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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.11-20) > ひる・ういんど 第18号 環境芸術その他

環境芸術その他

東 俊郎

 現代芸術は、文学もふくめて、ある共通の難所にぶつかっている。ただ、みはらしがきかず、五里霧中にも似た情況を手探りですすむ孤独な創造の作業のなかにも、渡鳥のように、未来にむけて無意識的方向感覚がはたらくらしいことを、今回の『井上武吉展』にちなんでひらかれた『井上武吉の空間と環境へのオマージュ』と題した音楽会の、なかでも一柳慧の作品『二つの存在』、『雲の表情』を聴きながらあらためて考えた。

 

 この音楽会のパンフレットでも引用したのだが、一柳の作曲思考にはいつも「一つ一つの音を大事にすることによって、音楽を時間の推移としてとらえるだけではなく、空間とか、間とか、沈黙を内在させるものとしてとらえること」*1という不変項がみつかる。これは一柳の思考に初動力をあたえたジョン・ケージをはじめとする尖鋭的な音楽家たちに普遍の合言葉だろう。その背後にあるのは、平均律化された十二音階のもつ、いったん動きだしたら、それみずからの緊張と弛緩の運動によって、つぎつぎにあらたな力がうまれて、とどまるところをしらないかのようなダイナミックな表現へと昂まってゆく西洋古典音楽に感覚的にはあきあきした気分と、表現理論的にはその袋小路に対するするどい危機意識だ。

 ところで、最近読んだ柴田南雄の『王様の耳』のなかに、目から鱗がおちるような言葉があった。「日本人の音楽感覚」と題した文で、彼は西洋音階でもっとも重要なのはドとソの五度の関係で、しかもソ音が他の音を支配するという、支配―被支配の構造がみえるのに対し、東洋に、したがって日本にみられる四度の関係の音において、「二音は同格」なので、

 

 四度を核とする音階には音の流れの起伏があるだけで、どこから始めてもいいし、どこで終わってもいい。*2

 

とさりげなくかたる。「起伏があるだけで、どこから始めてもいいし、どこで終わってもいい」とは、ぼくの耳に、一柳の作品だけでなく井上のそれをもつらぬき、近代芸術の緊張をほぐして、しかもぼくらの歴史を無理に西洋流に仕立てなおさなくてもいいという安心をもたらす、慈雨も同様な旋律としてひびいた。好きな時、好きな場処からはいることができ、又出てゆけるという意味で、それはぽくらが生きる環境であり、いっぽう、ぼくらの心の集中度の濃淡によってすべてにも無にもなる点で芸術である、水のような空気のようなやわらかい形をした環境芸術―を、その言葉は夢みさせるから。

 そして環境的であればこそ、空間とも沈黙とも、それは共存できるだろう。そこで、次のような言葉を連想したのは、ぽくにとってごく自然なこと。

 

 そうしてそのように感じるとき、われわれは狭苦しい閉ざされた場所から 逃れ出てきて、ひろびろとした星空の下、自分たちがふたたび真の世界に、深く、恐ろしく、予測しがたく、汲みつくしがたい世界に、最善のことも最悪のこともすべてが可能な世界にでたという、えもいわれぬ安堵を覚えるのである。*3

 

 これが、sound-scape(音の風景)を語るマリー・シェファー*4の文章でなくて、オルテガのそれだということに、多大の興趣をおばえる。群に先だつ渡鳥の羽声か。 

 

(ひがし しゅんろう・学芸員)

 

作家別記事一覧:井上武吉

*1 一柳慧『音を聴く』、岩波書店、1984年、p111

 

*2 柴田南雄『王様の耳』、青土社、1986年p247 柴田は各地から発掘される楽器をもとに、日本 人の音楽感覚の基礎は縄文時代に形成され、以後本質的な変化なく現在に至ってい ると語っている。

my sky hole 85-6a

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*3 オルテガ著作集2『大衆の反逆』、白水社、1969年、p79

 

*4 カナダの作曲家。つい最近『世界の調律』という本が出た。鳥越けい子他訳、平凡社、1987年、シェファーについては*1にも*2にも言及がある。

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