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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.11-20) > ひる・ういんど 第17号 伊勢両宮曼茶羅とその背景

伊勢両宮曼茶羅とその背景

山口泰弘

 

 三重県伊勢市にある皇大神宮(内宮)と豊受(とゆけ)大神宮(外宮)のふたつをあわせて、現在、正式には神宮、一般には伊勢神宮と呼んでいる。かつては、伊勢大神宮、大神宮あるいは二所神宮などとも呼ばれていたが、いずれにせよ、「伊勢両官曼茶羅」(表紙)は、その名のとおり、内宮と外宮の両宮の社頭の景観と諸衆参詣の有様を一幅に合わせ描いたものである。

 

 伊勢神宮の起こりは、『日本書記』などによると、内宮は垂仁天皇、外宮は雄略天皇の代に遡るといわれるから、その記載通りだとすると、外宮ですら一千数百年前、内宮はそれよりもさらに以前の創立ということになる。皇室の祭祀にかかわるという特別な地位が、創立の当初からそもそも伊勢神宮には与えられていたのだが、そのような重要な神社がなぜ、伊勢という皇室の中枢である大和からほど遠い地方に置かれたかは、たとえば、この地が海から昇る太陽を祭るのにふさわしい土地であるとか、大和政権が東国経営の拠点とするためであったとか、さまざまな憶測や議論があるだけで、不明というよりほかにない。

 

 ともかくこのような由来から、伊勢神宮は特別な神社として一般庶民の参詣をきびしく制限してさたが、平安時代の末期になると王朝財政の逼迫とともに、伊勢神宮に対する支持基盤も衰えたため、必要に迫られるかたちで全国に信徒を広める努力を始めるようになる。その先頭に立ったのが、御師(おし)と呼ばれる神職団であった。当初、豪族・武将層に拡がった信徒網は、室町時代になると、一般民衆にまで底辺を拡大していき、御師の指導幹旋のもとで全国各地に伊勢講の組織が形成されていく。御師は、講とのあいだで組織的に師檀関係を結び全国の檀家を回り、神札を配って信仰を勧誘する講では毎年2・3人の代表を選んで参詣させる。参詣老は講ごとに決まった御師の宿坊に泊まり、御師の引導で両宮を参詣する、といったように行われるのが、近世を通じて一般的な参宮のかたちだったといわれている。伊勢信仰の盛況ぷりは、「伊勢神宮に参詣しないものは、人の数に加えられない」と、近世初頭日本で布教活動をしたキリスト教宣教師が本国へ伝えるほどの状況にまでなっている。皇室の祭祀をあこなうという当初の性格は、民衆の帰依を集めることでまったく異なった性格の信仰の対象へと変化していったわけである。

 

 「伊勢雨宮曼茶羅」は、近世初頭の、民衆レベルの伊勢信仰が生み出した宗教絵画の一例である。現在、神宮徴古館に収められているこの絵は明治初年までは伊勢宇治の御師の宅にあったと伝えられるが、それはこの絵の性格を伝える証左といえるだろう。

 

 近世を通じて、このような民衆教化布教のために描かれた宗教絵画はおぴただしい数にのぼったことと考えられる。富士山信仰と関わりのある「富士参詣曼茶羅」や富山の立山信仰の産物である「立山曼茶羅」、あるいは熊野詣でに関係した曼茶羅などがよく知られている。参考として掲げた「熊野観心十界曼茶羅」(津市・大円寺蔵 参考図版)はそのような近世の曼茶羅の中でも遺例の多い画題のひとつである。

 

 熊野三山は古くから山岳信仰と結びついた神仏習合の霊場とされ信仰を集めていたが、三山のひとつ那智山が西国三十三所の第一番に当てられたことも手伝って中世から近世初頭にかけて貴賎を問わず多くの参詣者を集めた。熊野信仰の普及には御師、その配下の先達(せんだち)と呼ばれる山伏たちや女性の参詣を許した熊野ならではの熊野比丘尼の全国的な布教活動に預かるところが多かったのだか布教活動とかかわりつつ描き継がれた曼莽羅のひとつがこの「熊野観心十界曼茶羅」であった。画面上方左右に日輪月輪を配し、その下に人間の誕生から死までを表した半円形の坂道を描く。この坂道には、右の坂下で誕生し、頂上で壮年に達し、降るにつれ老い、やがて死ぬ、人生の行路がそれぞれの世代を象徴させる男女の組合せと四季のうつろいで表現され、その下には「心」の字を配し、さらにその下に地獄極楽のさまが展開する。実は、これとほとんど同じ図柄の曼茶羅が、近世初頭、元和・寛永年間の成立とみられる「住吉神社祭礼図屏風」の画中に登場することがはやくから知られている。画中では、住吉大社の橋のたもとで、ひろげた図を比丘尼が指し示しながら絵解き、女子供がそれを見入る、という場面が描かれている。おそらく、この「熊野観心十界曼茶羅」の一般的な使い方がここに示されていると考えてよいだろう。大円寺のものには縦横に折れ跡が残っており、小さく折り畳んで携行したものとみられ、画中の曼茶羅と同じように、布教の具として使用されたものであることを物語る痕跡といえよう。 おなじような折れ跡は、この「伊勢両宮曼茶羅」にも残っている。縦横に走る折り目の線から判断して、およそ36cmX24cmほどに折り畳んで携行したものと思わる。伊勢神宮には熊野のように先達や比丘尼はいなかったから、御師が布教活動の際に携行し、檀家である民衆の前で節に合わせて絵解きしたのだろう。

 

 本図は、一図のうちに、むかって左側に内宮、右側に外宮を配し、さらに上部左右に日輪・月輪)が置かれる。蛇足であるが、この日輪・月輪は、三重県立美術館のポスター・イメージのオリジナルになったものである。

 

 画面右下には宮川にかかる船橋とみそぎをする人々が描かれ、参宮の始まりを示す。道中は、山田の町並みから上方へ外宮、天岩戸を経て、中央部で下方へ屈曲し小田橋・間の山を過ぎて、五十鈴川にかかる半円状の宇治橋に至る。橋を渡ると内宮。内宮の上には朝熊山金剛証寺、その左には、二見浦と富士山が遠く望まれる。

 

 では、いったい誰がこの曼茶羅を描いたのだろうか。この曼茶羅の場合、美術史的興味はその辺に集まるといってよいと思われるが、ほとんどわからない、というのが現状といわざるをえない。しかし、泥絵具で描いたと思われる厚塗りの平面的な賦彩、画中の社殿の立体表現や人物の描写の漫画をみるような一種の稚拙感、それがこの図を特徴づける要因となっている。こうした表現上の特徴は同じ時代のこの種の曼茶羅にしばしば見受けられるものなのだが、室町時代末から江戸時代初期にかけて打ち続く戦乱の中で庇護老を失った奈良興福寺などの絵仏師たちが生計を立てるために描き、庶民の間で愛好されたいわゆる“奈良絵本’’の表現の特徴に非常に似通った要素が窺われるようにも思われ、何らかの関係を跡づけることができるかもしれない。

 

 いずれにせよ、この「伊勢両宮曼茶羅」は、民俗的な信仰の歴史とか、絵画の歴史とか、いくつかの観点から、非常に興味深い内容をはらんでいるように思われる。

 

(やまぐちやすひろ・学芸員)

 

年報/三重の美術風土を探る展

熊野観心十界曼茶羅

熊野観心十界曼茶羅

紙本著色

 

147.7x129.2

 

江戸時代 17C

 

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