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シリーズ 三重の作家たち

芸術の普及と版画芸術 ─雑誌「エッチング」と西田武雄─

荒屋鋪 透

 

 フランス国立図書館版画室名誉保存官で、版画研究の世界的権威であるジャン・アデマールは、文庫「クセジュ」に1980年加えられた新著『版画』の序論において、美術史学で版画を扱う場合のいくつかの問題点を指摘している。(邦訳『版画』幸田礼雅訳1986年 白水社)版画の歴史は一面で蒐集家が書き留めてきた外史でもあるので、そこでは版画作品に固有の特性が自ずと付随されるというのである。

 

 第一に、版画は同一の作品を複数製作することが可能であるので複製芸術の問題が生じる。そこでは、大衆に普及したイメージ、民衆版画と芸術作品を啓蒙する目的で製作された複製版画、そしてそれ自体芸術作品へと昇華されたオリジナル版画の分化がみられ、それらは逆に版画全般の機能をも意味している。第二に、版画はその技巧が多様であるので、いかにして技術を普及させるかという問題が生じてくる。ただ興味深いことに、この二つの版画芸術に固有な問題は、実は相互に補完し合っているのである。それは例えば、版画の黄金時代であった18世紀のフランス美術において、版画が、「他の芸術のジャンルに追随することなく、自律性を獲得してゆく過程を辿ればより明確になるであろう。18世紀フランスの宮廷社会では、建築物の中に小部屋を作ることが流行した。人々は豪華な広間を装飾する天井画や壁画から離れて、小規模で私的な小部屋を飾るに相応しい、小さな、巨匠の複製版画を欲したのである。この複製版画の需要の増大は、家内工業の職人の伝統と相侯って、版画工房でのアトリエ制の確立を促すことになった。そしてアトリエ制の中から、いわゆる画家兼版画家なる芸術家が登場し、彼らは「早くよりエッチングをたんなる粗描としてでなく、完成された段階の作品と見なし、そのさまざまな可能性を見出す契機をつくった。いっぽう愛好家たちもただの収集家の身に甘んじず、独自に版画をつくりたいと願った。」(前掲書 93頁)18世紀末のフランス革命によって、芸術の庇護者が王侯貴族から、官吏や商人へと移行すると、版画は芸術家と大衆の結びつきの中で機能し始める。大衆は官設展覧会(サロン)や評論家が執筆した美術批評(サロン評)、そして版画作品によって、芸術をより身近なものと感じるようになった。ドーミエやガヴァルニの石版画が、芸術の普及に一役買うだろう。そして腐蝕鋼版画協会なるものも1861年、芸術を愛好する市民層に支えられて誕生するのである。版画家のブラックモン、刷り師のドゥラートル、出版家のカダールによって創設された同協会の目的は、版画の芸術的使命の回復であり、その「会報は一八六二年の九月号から毎月一冊、五点の作品を含んで、一年間五十フランの予約で六十点のオー・フォルトが配布された」。(坂本満『版画散歩』筑摩書房1985年174貞) 

 

 ところで日本近代美術史における版画に言及する場合、我々はかならず、明治40年5月に創刊された、日本で最初の近代的創作版画の雑誌である、美術・文芸同人誌『方寸(ほうすん)』とその創刊同人であった石井柏亭、森田恒友、山本鼎らによる、版画の普及活動に触れるであろうし、また日本の創作版画の表現を拡張したという点から、矢張り、詩歌と版画の同人誌『月映(つくはえ)』とその同人、恩地孝四郎、田中恭吉、藤森静雄らの作品を見逃す訳にはゆくまい。総合美術雑誌『美術新報』や、文芸雑誌『白樺』での創作版画の紹介と並んで、これら二誌は大衆と版画家を作品を媒体にして、より密接に結びつけた点で、19世紀フランスにおける『腐蝕銅版画協会会報』と同じ役割を果たしたと言えよう。そして当時の美術雑誌の多くが、主に創作者の側に立ち、その時々の西洋美術の新傾向を紹介する、いわば鑑賞者の一段上から美術を啓蒙する姿勢をとっていたのとは異なり、版画雑誌には、美術の大衆への普及に力点を置いた、鑑賞者と同列の位置から、美術作品を眺める視点があった。このことは、日本近代美術史上、極めて重要なことである。なぜなら、鑑賞者が逆にその雑誌を介して、蒐集という行為への契機をつかみ、芸術家と同じ眼差しで作品に接する時、そこには一人のconnaisseur(芸術作品の鑑識家)が生まれる可能性が充分秘められているからである。日本の近代美術史において、従来、等閑視されてきた、このコネスール(鑑識家)の存在を、歴史の文脈に挿入させる、またとない恵まれた状況を,我々は創作版画の普及によって、初めて獲得したといえよう。

 

 そうした版画雑誌のひとつに、戦前、東京麹町にあった、室内社画堂の経営者として知られた版画家、西田武雄(1894−1961)が、昭和7年11月こ創刊した『エッチング』誌がある。『エッチング』誌は、戦時下に『日本版画』と改題され、昭和20年1月こに廃刊となるまで通巻132号を刊行した、版画専門誌の中では、最も息の長い雑誌であった。小冊子ながら、西田の鑑識家としての優れた見識に支えられて、その内容も単なる創作版画の紹介に留まらず、確実な技法の解説、近代洋画史における版画の位置づけなどを中心に、学術的な記事を連載していったのである。『エッチング』誌は、芸術の普及と版画芸術との関わりを考察するうえで、恰好な材料のいくつかを提供してくれる。戦時下に刊行された『日本版画』誌が、西田の日本エッチング研究所を改名した、日本版画奉公会機関誌であったことから、版奉を振って半峰と号した版画家、西田武雄に関する伝記は、既に今井貞吉氏が『芸術三重』(No.16,1977年9月 三重県芸術文化協会 編集・発行)に「画人西田半峰」という紹介文を載せているし、関野準一郎氏の『版画を築いた人々──自伝的日本近代版画史』(昭和48年、美術出版社)の中に「版画奉公会の半峰」の一文があるので、ここでは前述の二著を参照して、簡単な経歴を記してみよう。

 

 西田武雄は明治27年三重県一志郡七栗村大字森に、西田清蔵の五男として生まれた。六歳の時、母あいの従兄弟にあたる横浜市の大川福松の養子となった。明治42年、横浜商業学校に入学し同校在学中、大正3年の第八回文展に水彩画「倉入れ」が入選している。因に同年の文展西洋画には、黒田清輝の「もる、日影」や岡田三郎助の「たそがれ時」とともに、中村彝の「少女」が出品され三等賞を受賞している。西田は大正7年、東京本郷洋画研究所で岡田三郎助に師事しているが、版画家そして鑑識家西田武雄の本格的な仕事が始まるのは、大正14年麹町の日米ビル二階に、室内社画堂という名の画廊兼研究所を開いてからのことである。彼はそこで芝川照吉、石井鶴三、木村荘八、小杉末醒、石井柏亭、田辺至、岡田三郎助、中沢弘光らの個展を開催し、洋画画商の手腕を発揮してゆくが、西田の日本エッチング研究所が出版した、いくつかの美術書は、鑑識家西田武雄が求めた別の領域をかいま見せている。森口多里が昭和16年に著した『明治大正の洋室』の「五姓田芳柳と義松」の項に、平木政次の著作に触れた以下の様な紹介がある。「平木翁は五姓田芳柳の門人であったので、日本エッチング研究所の西田武雄君の尽力で刊行された翁の『明治初期洋畫壇回顧』は芳柳と其時代とを詳細に伝えている。」(同書18頁) 蒐集家西田武雄が探究した領域は、日本の初期洋画にも及んでいたのである。小島烏水は西田の著作『エッチングの描き方』の序で証言している。「西田は明治前後より現代に至るまでの本邦西洋画の沿革に就いて、潜心すること久しく、群書を渉猟蒐集している。」(1930年 木星社書院) 

(つづく)

 

(あらやしき とおる・学芸員)

 

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銅版画家たちのアトリエと彫版用の道具類

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(『百科全書』図版から)

 

 

西田武雄「倉入れ」

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第八回文展出品

 

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