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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.11-20) > ひる・ういんど 第16号 須田と鳥海─大原美術館所蔵品展余滴─

須田と鳥海─大原美術館所蔵品展余滴─

東 俊郎

 

 今回の「日本近代洋画の名作──大原美術館所蔵品展」ではすでにひらかれた他の企画展で当館の壁をかざったいくつかの作品に再会(藤島武二の『耕到天』、坂本繁二郎の『髪洗い』、中村彝の『髑髏(註:この展覧会では頭蓋骨となっているが)を持てる自画像』、萬鉄五郎の『雲のある自画像』、児島虎次郎の『凝視』など)でき、それをふくめていくつかの作品又はそれによる画家の記憶はいまもあたらしい。

 

 鷲掴みされた自然の、その空間の凹凸は、比較的おおきな色面の分割或は配置によって表に呈示されていると同時に、春の気配に花咲く桃色がその存在をしめす村落の、すでにリズミカルな分散が暗示する、それを一本でつないでゆくはずの屈曲した道をこころに描くことによって一層つよまるだろう藤島の『耕到天』。色にも形にも才気めいたなにも感じさせないのに、もっとも辛辣な眼でさえ剥ぐことのできない構造物につきあたる前田寛治。色よりもその色をのせて節々が葦みたいにまがってゆく線のほうがぽくには印象的な佐伯祐三。この線は、点と点とを均一な筆庄でむすぶ記号とならず、ゆるいSの蛇行によってかならず「意味」にかたむいてしまう。(しかしこの「意味」は彼の精神的な破産によるパリ客死という外的現実へ短絡できはしない、もっとふかい地下に根をもつ。)また、細部での大胆な破格でぼくらを驚かせながら、あらかじめ想定された全体があるかのように、しだいにもてる自由を自己制限して慊らないおもいをつのらせはするものの、それでもその腕に舌をまくしかない安井曽太郎の構成力の冴え。(彼の色彩と形態に対する感覚はむしろ版画とか、マチスがやったような切絵的な領域にあっているのかもしれない。)この安井の黄色と紫のみごとなくみあわせもそれと比較すればつめたく煮凝っていると判断せざるをえなくなる、梅原龍三郎の、装飾性などという通念をかるく揆無してかがやかしい眼の幸福へ招待してくれる『朝陽』。それから、小出の裸婦の連作のなかでも質のいい部類にはいるだろう『支那寝台の裸婦(Aの裸女)』-その乳房から腰をとおって脚へながれる線が包むヴォリウムはキスリングやモジリアニがみつけたものに似て、封建日本が鋳型にいれた女性の体型のありのままの写実なんかじゃない、佐伯におけるパリ風景とおなじく、小出楢重に固有の精神をもりこむために恰好の原基なのだ。

 

 以上のほかにとりわけぼくの眼を惹いた作品が2点あって、今回はそれについて書いてみたい。企画展示室(3)の、満谷国四郎の作品群のすこし手前にならべて架けられた須田国太郎の『浜(室戸)』と鳥海青児の『川沿いの家』がそれである。

 

 須田国太郎はまえに坂本繁二郎を調べているうちに気になりはじめた画家で、ふつう矛盾するはずの明晰と曖昧が唇歯輔車する表現力にある共通項がみてとれそうなのだが、それはそれとして、どちらもその作品をみようとする人の能力のうちから、光学的な視覚作用だけでなく、頭から爪先まで人体に分布するすへての知覚収集器官とその情報を解析し又湊合するぽくらの機能を──ようするに断片化されたぽくらではなく全/一であるぼくらを要求するという意味で、トルストイやバルザックの長大な小説にむかうときとおなじく、素手で胡桃をわるのに似た忍耐が不可欠とされることはまちがいない。逆にいえばこれら正真の芸術作品が、けっきょくのところ常識が現実と名付ける外部の「写像」或は「模写」といったものでなくて、かれらの表現に籠もる力によって現実よりもいっそう「高分子化」されたcosmosであるということになる。cosmosの殻は固い。

 

 そういうわけで、須田作品が一個のcosmosであることをぼくは信ずるが、その都度あらたに発見しなおさなければ存在するといえないこのcosmos感覚がしばしばやってくるといえば嘘になり、むしろ須田という島宇宙までの「距離」のとおさを嘆くことのほうがおおいかもしれない。須田の他の作品である『蔬莱』とか『卓上静物』、『真名鶴』、『黄比叡』などにくらべてこの『浜(室戸)』は、なかなかぼくをcosmosにしてくれないのだ。それはひとつには、この作品を描いたころの須田が一種のスランプに陥った後の回復期にあったという事情によるのかもしれない。1947年に書かれた文章で、「滅茶苦茶にされたと思っている自分の画境とでもいうべきものの建て直しを考えている。」と告白しているように、理論としてははっきり足場をかためたはずの明暗と色彩との肉離れにくるしむことが、断ることをしらなかったらしいこの大人におしよせた外的な「雑用」による多忙にかさなって二重化したからだ。

  須田国太郎「只今の己」、『独立美術』、1947年(須田国太郎『近代絵画とレアリズム』中央公論美術出版に収録)

 しかしこの作品の絵肌は、他のどの絵画にもみられない時間の堆積と、なんらかの暴力によるその剥奪に耐えてそこにいまあるものの、古画のような力と美しさをさまざまな度合の黒の印象のなかでときに輝かせる瞬間があり、会期中毎日二度はそのまえにたつことに飽きないだけの引力をぽくには行使しつづけた。籠にはいった鰹の、それだけが眼をはっきり描いてある一番右下のが、そのうちいやにリアルにかんじられてきたこと。それよりもっと右下隅の「須」の署名の紅色に、全オーケストラにそれ一本でじゅうぶん対抗する管楽器の音みたいな勁さをみとめたこと。こうおもいだしてみると、この作品についてのぼくは、それを腑撤する鳥でなくて、地面の凹凸を体にうけてcosmosの入口を捜しまわる蟻だったと結論できる。

 

 鳥海はそうではない。かなりおおきな亀裂がはしって立体地図の山脈状になったその画面にもかかわらず、この『川沿いの家』はまがいようのない世界を、とりわけその色彩によってそこに建築する。たしかにこの画面は抽象的で(垂直と水平と斜めの力だけでできている)、古典的で(地中海の午後のしずけさとその不動の彫刻性)ないことはないとしても、とおくからでもその存在を告げながらたちまち距離を無化し、会場すべてがその色に乗習したかと錯覚させるカの発生源がどこかといえば、色彩以外のどこにもなく、さらにこの色はぼくにとって色である日本であった。色見本からとりだし器用に貼りあわせたそれでなく、厚塗の鳥海といわれるにふさわしい複数箇の絵具の化合がうむ純一なマティエェルにかけて、油絵の骨法を強化はしても逸脱しない色でそれはあるのに、cosmosとしてあたえられるときの印象は、きまって、ぼくらのまわりに空気も同様に存在する現実の「高分子化」状態の自然としての色なのだ。そして、これにすぐむすぴついた経験をいまおもいだすが、ひとつはやはり鳥海の『夜のノートルダム』(1932)**の、それまではフランスの色とみえないこともなかった記憶が変形されて、『川沿いの家』のそれと親和し共鳴しあう日本へと身を翻したことである。予期しないこと、といえないとはすでにそれが起ってしまった現在だからいえることだろうか。もうひとつは、数年前短いイタリア滞在からかえった六月の日本の新幹線からみた東海道風景に、ここでの例でいえば鳥海でなく須田の絵の印象に似た、墨色だけしか発見できなかった、色彩喪失の奇妙な体験なのだが・・・鳥海の色はこの喪失感を否定するのでなく、今度はちがった角度からてらして、いっそう深めたともいえる底の色だというべきか。それなら思うにぼくは鳥海だけでなく、須田の無色にも鳥海と等価の色を同時に感得していたのではなかったのだろうか。

** 三重県立美術館でひらかれた「パリを描いた日本人画家」展(1986.3.29-5.5)に同年作の『ノートルダム・ド・パリ』とともに出品された。

(ひがし しゅんろう・学芸員)

 

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