このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

サイト内検索

美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.11-20) > ひる・ういんど 第15号 「1890年代の危機」と黒田清輝 「黒田清輝展」研究ノート

「1890年代の危機」と黒田清輝 「黒田清輝展」研究ノート

荒屋鋪 透

 

 黒田清輝は1888年(明治21)11月16日付父宛書簡の中で、12日よりパリ郊外のバルビゾンに遊び風景画を描いていることを報告し「バルビゾント申村ハ今日二てハ欧米二知ラレタル場所二御座候 其レト申も此ノ村二て世間ノ畫工連ヲ離れて獨り景色ヤ田舎ノ生活ノ状ヲ寫して畫を研究し一生ヲ貧乏二暮したるミレ ルソーノ二人ノ名が知れ渡りしヨリノ事二候」と書き添えている。黒田は翌1889年のパリ万国博覧会特別展「フランス美術:1789-1889年」に出品展示されていたミレー、ルソーやコローなどの作品に傾倒し、その感動を同年6月21日付の書簡に述べているように、バルビゾン派の絵画に心惹かれるものを見い出したようである。前掲の11月16日付書簡中、特に注目される箇所は、ミレーやルソーが中央画壇から離反し、貧困と孤独にさいなまれながらも制作に励んだと説くくだりである。この時期の作品には「ミレー『小便小僧』模写」があるが、写生帖に残された小さなスケッチも見逃してはならないであろう。(写生帖5号1:1888─89年、写生帖6号2:1889年)これらのスケッチは、明らかにミレーの農民画との類似を示しているのだが、それは単なる偶然ではあるまい。ここでは黒田がミレー作品を見たかどうかということ以上に、彼が既にミレー的視点を体得していたということの方が重要であると思われる。それでは「ミレー的視点」とは何か。ミレ-の牧歌的世界から30年の歳月を経た、黒田の農民画の源泉は何処にあるのか。

 

 ロバート・ハーバートの卓越した論文が提出されて以来、描かれた絵画作品の前衛性-この言葉は既に、有産階級と労働者の逆転した世界を非難し、階級闘争を予見したサン・シモン伯爵が、1825年自らが囲う革命芸術家を形容した軍事用語であったが-によって、19世紀後半から20世紀初頭に、パリの中央画壇において物議をかもした画家たちの制作の拠点が、都市から都市郊外あるいは地方に移行されつつあったこと、またその前衛画家の移動は、単に19世紀最後のコレラの伝染が1848年にパリを襲ったからというばかりでなく、都市の美術界に蔓延していた「悪しきアカデミスム」を根絶するためには、画家自身が大胆な制作上の立脚点の変更を逼られていたことが明らかにされつつある。(Robert L.Herbert, 'City vs. Country: The rural image in French painting from Millet to Gauguin; ' Artforum, February, 1970.)

 

 この芸術家の移動は、17世紀にギルドがアカデミーに取って代わったこと以上に、新しい芸術家像を形成するうえで決定的な要因となった。アカデミーは国王や市民階級の庇護のもとで、芸術家の社会的地位を高め安定させることに貢献したけれども、その組織機構、新参者への教育法の多くをギルドに負っており、古典主義を温存するためには打って付けの場所であったかもしれないが、建築、彫刻、装飾・工芸といった比較的職人的要素の強い分野はともかくとして、人々のイメージの拡張にとって最も基本的な領域であるべき絵画にすら、その変革にアカデミスムが何ら寄与しなかったことは、むしろ驚くべきことであったと言わねばなるまい。もっとも、絵画が主題の上でも技巧的にも、生気に満ちた歩みを始めるためには、アカデミスムが支配的であった時代に波状的に押し寄せた市民革命が、表向き終息し、産業革命がもたらした物質的繁栄に裏打ちされた、安佚な市民社会を待たねばならなかったことも事実だ。

 

 ところで、マリリン・ブラウンが、19世紀フランス美術史の中に登場する、ジプシーやボヘミアンのイメージを系統づけたように、Marilyn R.Brown, Gypsies and Other Bohemians: The Myth of the Artist in Nineteenth-Century France. UMI, 1985.―この著作は以前ブラウン女史が"The image of the "Bohemian" from Diaz to Manet and Van Gogh?"の標題のもとに、1978年イェール大学に提出した博士論文を脹らませ整理したものだが─画家がジプシーやボヘミアンを描き、自らもその仲間に加わって放浪の旅を続けることとなる背景には、ロマン主義から社会主義的レアリスムを経過して自然主義に至る、思想史の推移に伴う図像の変遷があったことも忘れてはならないであろう。いわゆる「受難せる芸術家」としての前衛画家は一朝に仕立てられた訳ではない。ただ実際、20世紀初頭に出現した前衛芸術家と呼ばれる一群の画家を、仔細に調査してみると、彼らは皆、同じ土壌で育まれていたことを知るのである。Theda Shapiro, Painters and Politics: The European and Society, 1900-1925, New York, 1976.(邦訳『画家たちの社会史』荒井信一訳 1984年 三省堂)

 

 そして大変興味深いことに、我々はシーダ・シャピロが図式化した、前衛画家の履歴と同じパターンを、黒田清輝その人の履歴の中に見い出すのである。シャピロは約80名の、1900年から1925年に活躍した、アヴァン・ギャルドに共通した生いたちを以下の様にまとめた。(1)1860年代から70年代に生まれる。(2)ブルジョワジー出身。(3)地方都市出身。(4)兄弟は極端に多いか少ないか。(5)快適な少年時代を送るが、彼らの反逆的行為は、まず家庭から始まる。(6)脱俗的行為を潔しとし、反物質主義を唱えるが、宗教については語ろうとしない。(7)作品のモティーフを、娼婦、日雇労働者、曲芸師、道化師などの街頭生活者や小作農民などの下層階級に求める。

 

 シャピロは彼らの多くが、その青春時代を1890年代に送り、家庭や社会に対して挑戦し芸術家を志した年代が1890年代であったことから、その分岐点を「1890年代の危機」と呼んだ。1866年(慶応2)鹿児島市に生まれ、元老院議官黒田清綱の養子として育った清輝が、18歳で法律修学のためフランスに渡り、周囲の反対を押して画家となり帰国する。黒田清輝が結果的に成功した芸術家であったため、我々はその生涯の影の部分に関して充分な資料を持たない。また既に国民的画家となった人のいくつかの家庭的な不幸を、今更らしく吹聴することもあるまい。ただ、明らかに黒田は「1890年代の危機」をパリで経験し、シャピロが述べるところの「常軌を逸することのない前衛画家」として、明治から大正にかけての日本の洋画界に君臨したのではなかろうか。

 

(あらやしき とおる・学芸員)

 

作家別記事一覧:黒田清輝

黒田清輝 「写生帖5号1」

黒田清輝

「写生帖5号1」

 

1888年-89年

 

 

ジャン=フランソワ・ミレー 「落ち穂拾い」 

ジャン=フランソワ・ミレー

「落ち穂拾い」

 

エッチング

 

1855年-56年

 

 

黒田清輝 「写生帖6号2」

黒田清輝

「写生帖6号2」

 

1889年

 

 

ジャン=フランソワ・ミレー 「ランプの下で縫物をする女」の習作

ジャン=フランソワ・ミレー

「ランプの下で縫物をする女」の習作

 

黒コンテ

 

1855-56年

 

ページID:000055455