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橋本平八と円空

森本孝

 

 美術院の研究所規則には、伝統的な木彫と洋風の塑像を日本画と洋画のような区別をすることなく、自由な雰囲気のなかで研究をすすめることとあり、また東洋の伝統に根ざした木彫を振興しようとした岡倉天心の理念を反映させて、日本美術院には木彫家がこぞって集まっていた。平櫛田中は西洋の写実的な表現を日本の伝統的な木彫のなかにみせ、佐藤朝山は大正11年に渡欧して西洋彫刻に接し、エジプト彫刻にも深い理解を示し、日本の伝統との融合を図った『牝猫』など細密な彫技を発揮して、覇気に満ちた作風を示し、集まる作家は増加してもマンネリ化の一途をたどり魅力を喪失していった官展をしのぐほど、在野にあって院展は活気を呈していた。

 

 上京して佐藤朝山に師事し、日本美術院彫刻研究室で木彫と塑像を学び、大正13年日本美術院院友に推されたことを契機に、朝山のアトリエを出て独立した橋本平八は、大正15年(1926)伊勢朝熊町に戻っているが、平八の場合、単なる帰郷ではない。「日本美術の根源にたちもどることによって生命をかくとく」できると考え、芸術するためには大自然に囲まれ木の精が満ち、四季折々の風情が溢れるところを理想としたからであった。伊勢以上に 理想的なところと考えた高山へ行くことを熱望していた平八は、昭和6年(1931)にその機会を得た。

 

 橋本平八は、昭和6年9月21日の日記へ次のように記している。「高山へ出かける。原始林を見る。原始世帯を見る。辟邑をみる。その空気その光景こそ自分の期待する総てである。幽邃なる空気気韻に接することは唯一の望みである。ここに於て自分の年来の興味の中心点とする所の大和民族のありのままの姿に接すれば自分の大願は殆ど成就に近づくものである。今年の事業は高山の原始精神と正倉院の古代文化の接触面である。」(『純粋彫刻論』 P136、以下ページのみ記す)。10月4日に高山に着き、日記には「高山の町に到着。全く予想外の立派な町だ。夜の町も亦静かで本当に心の土に帰る町だ。芸術の発達する町だ。思想の深まる町だ。日本に取り大切な町だ。日本を力強くする町だ。そうした感激が一杯だった。」〈p140)とある。10日には帰路についているが、8日には千光寺に宿泊、偶然の機会であったが円空仏と平八は出会うことになる。

 

 千光寺は、飛騨高山から北方へ車で20分ばかり行ったところ、正確には岐阜県大野郡丹生川村下保、袈裟山(海抜950メートル)山麓から、うっそうと繁る杉林に囲まれた急な坂道を登ったほぼ山頂にある。高野山真言宗の末寺で、修禅観法の道場として山岳仏教の古風を伝えている山寺。ここから、アルプスの山々や丹生川村一帯の田園地帯を展望することができ、景観はすばらしい。円空は、延宝、貞享、元禄年間の3度にわたり飛騨を訪れており、この地にもたくさんの作品を遺しているが、千光寺にも『両面宿儺像』をはじめ、『不動王明像』『金剛神像』2体『千本仏』31体『仁王像。2体『迦桜羅像』2体『地蔵菩薩蔵』『弁財天坐像』『竜王坐像』そして『自刻像』など50余体が所蔵されている。

 

 飛騨人は、円空仏を「エンク」さんと呼ぶ。なで仏『自刻像』は、飛鳥彫刻に通じるような静かな微笑をたたえており、無病息災を願う土地の人々によって撫でられ、つるつるに光沢を放っている。『千体仏』は柔らかい素材を鉈で4つに縦割りし、木の心を前面として偶然にできた割面を生かしながら造仏している。

 

 この他、鉈さばきの見事な『不動明王』など、円空ならではの作風を示す作品群が千光寺に所蔵されているが、それらのある円空仏のなかでも怒っているような二つの顔を持つ『両面宿儺像』は、円熟した円空の巧みな彫刻をうかがうことができる。両面宿儺の姿は、『日本書紀』に「飛騨国に一人有り。宿儺という。其れ為人、体を壱にして両の顔有り。面各相背けり。頂合いて項無し。各手足有り。」と説明されているが、土着の豪族を伝説化したもので、円空は、堅い一木そのままの材質を生かし、厳しい表情の宿儺をダイナミックで量感溢れる姿に表現している。

 

 円空は丸木を縦に割り、その割れた肌の荒い素材を生かし、大胆に荒彫りしていく。自己の影像を単純化させて表現する円空の彫刻は現代と通ずるところがある。木喰は柳宗悦によって紹介されていたが、平八が円空仏に出会った頃には円空の作品は民間信仰の対象でしかなかった。

 

橋本平八は10月8日になって、円空との出会いを「去る10月8日自分は千光寺に一泊した。翌9日早朝より三蔵蓮体住職に依って紹介された円空上人像には作者作品共に非常に感服した。依頼20日の今日尚想像新にして益々熱度を加へつつある。真実打込んで心を尽しゐる。先づ出来得る限り細大漏らすことなく接することを発心した。」(p141)と記している。

 

 鉈一本とのみ一本を背負って造仏遊行の僧であった円空は、生気を喪失していた、礼拝を目的とする仏像を造る専門の仏師たちとは関わりを持たず、祖霊を供養するため、あるいは厄災をはらう目的から奉納するために情熱を持って造仏した、いわば素人作家であった。平八は、このような円空の生さ様にも感動し、円空の生き方を理想とした。それは『上人の彫刻』と題した次の言葉から窺える。「この上人の高潔なる彫刻精神を以て、ここに創作されたる仏像のおぴただしく、しかもその一小作品といえども必ず上人の精神を具へてゐることは、実に驚く可きものであって、その高尚なる精神を以て製出された無数の仏像には、最も完全なる仏を顕現するに適切であらねばならない。芸術にたずさわるもの、亦太初に精神の修養を必要とする全き志こそ、その芸術に於て始めて蘇る。」(『現代の眼』123号所収東京国立近代美術館)

 

 円空仏の作風に対し、「背面を大胆に省略して、偏平なる一見前半のみの未完成品の如く極端に省略してあるけれども、背後にも極めて用意周到なる衣紋、或は頭部に量を表はす為の刀跡がある。是等の技巧は、この背面を単なる平面として考へたるものではなく、充分前後の量の均勢を考慮されたものであって、事実確かにその極めて自然なる量を保ってゐるのである。

 

 比の偏平であって而も充実されたる一つの立体の系統、言を換えて云へば、偏円なる基調、このこれが上人の彫刻的体系である特殊性即特長であり個性であり、引ては大和 民族の彫刻的特長であり個性であり、尚一面から観れば、この偏平基調それ自体が因て脱俗渇淡無慾の感情を表現する唯一の要素となり現実を超越して而も極めて自然なる一個の生命ある存在をここに創造なし来ったわけであって、実にここにこそ大和民族の誇とする渇淡無慾清浄素朴なる彫刻が創成されるのであって、この基調こそ大和民族芸術の唯一真源神である。」(『上人の彫刻』)と記している。

 

 日本の彫刻史にあって、その主流は仏教彫刻であり、円空や木喰は異端とされてきたが、素材に即した造形を追求する円空や木喰、そして近代の橋本平八の彫刻に、より日本的な木彫の伝統が感じられる。古代から円空・木喰に、そして平八から木を素材とする現代彫刻へと続く太い流れがある。

 

(もりもと たかし・学芸員)

 

年報/橋本平八と円空展

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